- 発行日 :
- 自治体名 : 福井県越前町
- 広報紙名 : 広報えちぜん 令和7年3月号
E子:こんにちは!前回の終わりに質問しましたが、どういう人が小粕窯で湖東式瓦を焼くように命じていたのですか?
学H:こんにちは。湖東式瓦が集中する近江愛知郡は、渡来人の依知秦氏(えちのはたうじ)が居住した地域とされています。
E子:依知秦氏とはどのような氏族ですか?
学H:依知秦氏は、古代の渡来系氏族です。大国郷(おおくにごう)(滋賀県愛知郡愛荘町・東近江市)を本拠地とし、八木郷(やぎごう)(滋賀県愛知郡愛荘町)などにも勢力を拡大しました。
E子:かなり繁栄した氏族だったのですね。
学H:その通りです。さて話を戻します。越前は、日本海を横断する対馬海流により、五・六世紀の陶質土器などの渡来系文物や、新羅関係の神社、百済王女の自在女(じざいめ)が流れ着いた伝説などがあることから、大陸・半島とのつながりが深い地域でした。湖東式瓦と渡来系氏族との関連の深さを念頭に置くと、小粕窯跡で生産された瓦を葺いた寺院の造営者は、秦氏(はたうじ)などの渡来系氏族とつながりが深い集団であったと考えられます。
また湖東と丹生の関係として、『日本書紀』に皇極天皇元年(六四二)九月、天皇は百済大寺起工の詔勅を発し、「近江と越の丁(朝廷の土木工事に使役された人々)」の動員を命じたことや、越より数千人が宮廷造営に動員されるといった記事がみられます。このとき越と近江の技術者同士が交流をもち、本地域の寺院造営に湖東の影響があったと想定できます。他にも天智天皇二年(六六三)八月の白村江の戦で日本が唐・新羅連合軍との戦いに敗れた後、続々と日本へ亡命してきた百済人氏族が居住したことがあるそうです。
考古学研究者の久保智康氏は、瓦陶兼業窯の造瓦工人組織は従来の須恵器工人組織を安易に動員したのではなく、政治的な意図のもと技術者を中央から移入したものであると述べています。このことから小粕窯跡の運営者は、工人を介して湖東地域の有力渡来人から造瓦技術の提供を受けたのではないかと推測しています。
E子:小粕窯跡の瓦が有力渡来人との関係を示していたことに驚きました。
学H:次回は別の窯について紹介をしていきます。
[引用・参考文献]
・織田町教育委員会『小粕窯跡発掘調査報告書』一九九四年
・越前町教育委員会『越前町織田史(古代・中世編)』二〇〇六年