文化 地域の歴史(33)鷹野つぎ文章碑

鷹野つぎは静岡県浜松市生まれで、松原出身の新聞記者鷹野弥三郎と結婚し、弥三郎の紹介で島崎藤村に師事して島崎藤村に最も期待された女流作家でした。
病と貧しさの中で、夫弥三郎氏の深い理解を得て、小説、詳論、随筆など十一冊を世に出しました。戦時下の昭和十八年に五十三歳で世を去りました。没後夫弥三郎氏、恩師島崎藤村、地元土村の新津亨氏ら有志によって松原湖畔に、鷹野つぎを偲ぶ文章碑建立の計画がありましたが、藤村、夫弥三郎の相次ぐ死、戦争の激化、敗戦後の混乱期の中で、果たされぬまま四十数年が経過しました。
文章碑建立が具体的となった要因は、佐久地方の有志の文章碑実現の声が高まってきたことと、次に述べる東校長先生の印税寄付であった。
鷹野つぎ二女三弥子氏が松原湖畔に移した島崎藤村、与謝野晶子、平塚雷鳥、竹久夢二、川端康成ら明治末から大正、昭和にかけての作家、歌人から鷹野つぎに寄せられた未公開書簡約六百通等(鷹野三弥子氏所蔵)を見て感動した島崎藤村研究家で地元県立小海高校校長の東栄蔵氏は昭和五八年『高野つぎ─人と文学』を出版し、印税五十万円を小海町に寄付して文章碑建設を訴えた。
昭和六十一年十二月、小海町町制三十周年記念事業として町費三百万円をかけて、女流作家高野つぎを顕彰する「文章碑」が松原長湖湖畔の松原区区有地に建てられた。島崎藤村・秋田雨雀らの発起した念願が四十三年ぶりに実現をみたのである。つぎ夫妻と子供たちの墓は文章碑のすぐ下に見渡せる場所にある。長湖をはさんで神光寺の木々が見え、遠く八ケ岳が望見できる。

文章碑 鷹野つぎ
信濃の春は短い、と私は思ふ
だが深い
そして非常に清新である。
たとへば目覚めのひとときのように
衰弱のあとの健康のように
「佐久の文学碑」より

刻まれた文章碑の題字は、島崎藤村の筆。文章は随筆「信濃」の中の一節である。

文章碑のパネルの大きさ
高さ一三五センチ
長さ二一〇センチ

町志中世編纂委員 成澤良夫