文化 碧南の歴史へのいざない

■No.114碧南の寺を巡る(7)〜宿泊・文芸・学校・避難の場〜
大浜の称名寺(しょうみょうじ)(築山町)は暦応(れきおう)二年(一三三九)創建と伝わる時宗(じしゅう)の古刹(こさつ)です。かつては和田氏、松平氏などの有力者から保護され、徳川幕府から朱印地(しゅいんち)も与えられました。
戦国時代には、京都と駿河(するが)(静岡県)などを行き来する人が大浜の湊(みなと)を利用し、称名寺に宿泊して住職らと語らい、和歌や連歌(れんが)で親交を深めました。徳川家康の幼名(ようみょう)「竹千代(たけちよ)」命名の由来もこの寺で行われた連歌の会にあると伝えられています。
秀吉(ひでよし)の時代には軍船建造のための鍛冶場(かじば)にされて荒廃し、江戸時代に復活したものの、火災からの復興に多大な努力を要した歴史があります。
明治時代の初めには菊間(きくま)藩大浜陣屋が村々に開設を命じた「新民塾(しんみんじゅく)」がここでも開かれ、その後は明治時代中頃まで大浜小学校となって、子どもたちが通って来ました。
ところで、碧南市の東部と南部の多くは江戸時代から新田開発がなされ、水害に苦しんできた地域です。近くは昭和三十四年(一九五九)の伊勢湾台風により、甚大な被害を受けました。碧南市は市内公共施設及び十五か寺に避難所を開設しました。とりわけこの年の四月に編入したばかりの碧南干拓(川口町)は堤防が決壊して海水が流入し、家屋倒壊、一か月以上浸水という惨状でした。ここの避難者は称名寺に避難しましたが、そのため称名寺は四十日以上避難所となっていました。

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