- 発行日 :
- 自治体名 : 滋賀県草津市
- 広報紙名 : 広報くさつ 令和7年12月号
■亡き当主を偲(しの)ぶ歌集「田中貞澄(さだすみ)追善和歌集」
文化7(1810)年、田中貞澄は18歳にして家督(かとく)を継ぎ、田中七左衛門となった草津宿本陣の8代当主です。草津宿の庄屋や問屋役も勤めており、当時大津に移っていた貫目改所(かんめあらためしょ)を草津に戻そうと、江戸まで出向いて伝馬所(てんましょ)の秤(はかり)を持ち帰り貫目改所を再興するなど活躍しましたが、早々に家督を弟貞文(さだふみ)に譲り、本陣の奥に「三少庵(さんしょうあん)」という別宅を設け隠居しました。
風流を好む人でもあり、和歌・謡曲(ようきょく)・茶道・聞香(もんこう)・挿花(そうか)などを楽しみ、茶道は千家流、和歌は京都の歌人、香川景樹(かがわかげき)に学んでいます。陶芸にも親しみ、膳所藩主とも、手作りの急須を拝領されるなどの親交がありました。また、文政11(1828)年、東海道を通行途中の松浦肥前守が急遽宿泊した際は、隠居「三少庵」を格別に気に入り、2首の和歌を賜ったといいます。
貞澄は天保3(1832)年5月1日より病に伏し、同月17日に40歳で逝去しました。急なことであったようですが、病床に香川景樹を招き、辞世の句を詠んでいます。翌天保4(1833)年4月17日、弟の貞文は貞澄の追善のため、貞澄と親しかった人々を石山の湖月坊に招いて、貞澄の辞世の句を披露し、歌会を催しました。歌会の題者は師匠の香川景樹で「夏の懐旧(かいきゅう)」と題を出し、講師は三宅意誠(みやけおきのぶ)が務めています。その時、貞文は集まった公家や武家、近郷の有力者などに一句を請い、出席者は色紙状の料紙に和歌を詠みしたため「追善和歌集」としてまとめました。
この和歌集は「折本(おりほん)」と呼ばれる蛇腹状に折りたたんだ冊子形式で、色紙にしたためられた和歌85首が貼られています。序文を香川景樹が記述し、跋文(ばつぶん)には役割を担ったものの名前が記され、格式のある歌会であったことがうかがわれます。
追善の会を催した貞文もまた、風流を好む当主であったらしく、草津宿本陣にはこの二人の当主の頃の和歌や茶道・華道の関連資料が数多く残されています。
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