くらし 特集 わたしたちの「戦後80年」─ 語ろう、忘れないために ─(1)
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- 発行日 :
- 自治体名 : 京都府福知山市
- 広報紙名 : 広報ふくちやま 2025年8月号
2025年は、第二次世界大戦の終結から80年という節目の年です。
福知山市でも、戦争で命を落とされた方がいます。戦争を直接知らない世代が増える今、記憶を未来につなぐ“数少ないタイミング”を、私たちは生きています。
この特集をつくろうと思い立ち、体験談を募集したところ、「戦地から届いた父のはがき」や「燃やされた青い目の人形」の話など、これまで公に語られることのなかった個人の記憶が寄せられました。
戦争という大きな出来事を、遠い歴史ではなく、“わたしたち”の声として受け取ることで、見えてくるものがあります。それは、平和への願いの先にいまの暮らしがあること。
「語ろう、忘れないために」
今回の特集で、少しでも分かちあえたらと思います。
■戦前、アメリカから福知山にやってきた「青い目の人形」
1927年、アメリカから日本の子どもたちに、平和と友情の願いを込めた約1万2千体の「青い目の人形」が贈られました。人形には、一体ずつ名前とパスポートがあり、全国の小学校や幼稚園に届けられました。
しかし、太平洋戦争が始まると、「敵国の人形」という理由で多くが処分されました。それでも、一部は密かに守られ、今も全国に300体ほどが残っています。
福知山幼稚園には「ヘレン・ウッド」と名付けられた人形が贈られました。戦火をくぐり抜け、今は福知山市教育委員会で大切に保管されています。2018年には、姉妹都市の長崎県島原市に現存する人形「リトル・メリー」と共に、両市の「友好親善特別大使」にも任命されました。
■燃やされた罪なき人形
「ヘレン・ウッド」が守られてきた一方で、福知山市内のある小学校にも一体の青い目の人形が贈られ、やがて焼かれていたという歴史の記憶が、市民の方から寄せられました。
戦争のさなか、学校に「敵国の人形を処分せよ」との通達が届き、「子どもたちがかわいがっているのに燃やすのか」「国の命令に従い処分すべきだ」と教職員のあいだで意見は分かれ、葛藤の末、人形は燃やされることになったといいます。戦争に翻弄された人形たちは今では平和のシンボルとなり、静かに私たちを見つめています。
戦後80年。記憶を継ぐべきこの時代に、あなたも家族や周りの人と戦争の記憶を語り合ってみませんか。次は、戦争で大切な人を亡くした家族からの体験談を紹介します。
(ある小学校の青い目の人形に関する証言:卒業生から聞き取り)
ヘレン・ウッドと、平和学習に向かう福知山市の高校生たち。毎年中高生が沖縄、広島、長崎に直接赴き、平和について学んでいます
◆このはがきは、一生持っとかな
西垣(にしがき)マサ子(こ)さん(85)
夜久野町板生出身
○海軍に志願した父 遺骨箱の中身は空だった
西垣マサ子さんの父・畠中清(はたなかきよし)さんは、太平洋戦争で海軍へ志願し、33歳で戦死しました。
「父のことで覚えているのは、舞鶴の海軍基地に面会に行ったことぐらいです。父は『海軍がかっこいい』という理由で志願し、私が4歳のときに亡くなりました」
終戦後しばらくして、清さんの名前が記された白木の箱(遺骨箱)が上夜久野駅に届き、マサ子さんは母と一緒に迎えに行きました。清さんの遺体は海に沈んだため、箱の中身は空でした。
「小さいながらに、父が亡くなったことはわかりました。でも育ててもらった記憶がなかった。涙も出なくて、どう感じたらええんか、うまく言葉にできんかったですね」
その後、マサ子さんは母や祖父母に育てられたといいます。
「祖父が父の代わりになって、よく面倒を見てくれました。私が子どもだったからか、誰も父の話をしませんでした」
○父からのはがきが唯一の形見
時が経ちマサ子さんが50代のとき、祖父の部屋を整理していると一通のはがきが見つかりました。出征前、清さんが祖父・清吉(せいきち)さんに宛てたものでした。
「目的地に向かうこと、家族を気遣う言葉、私や兄の名前、そして『返信は不要』と書かれていました。遺骨はないので、私と父をつなぐのはこのはがき1枚だけです。一生持っとかな、と直感的に感じました」
マサ子さんは、今改めて思うことがあるといいます。
「私は、父の声を知りません。戦争がなかったら、きっと一緒にご飯を食べたり、叱られたり、笑い合ったりしていたと思います。戦争はそういう日常を奪います。戦争がなかったら、私たちはどんな家族やったんかなと思います」
◆奪われた命の重さを忘れてはなりません
蘆田信夫(あしだのぶお)さん(73)
甘栗出身
○「大鳳(たいほう)は〝不沈艦〟大丈夫や」18歳で出征した叔父
蘆田信夫さんの叔父・蘆田秀雄(ひでお)さんは、18歳の若さで航空母艦〔大鳳〕の沈没と共に亡くなりました。
「出征する前に、家族に『大鳳は〝不沈艦〟やから大丈夫や』って、笑って言っていたそうです。それが最後の言葉になりました」
戦後からしばらくして、秀雄さんの姉(信夫さんの叔母)が雑誌で〔大鳳〕艦長の菊池朝三(きくちともぞう)さんの記事を偶然見つけます。
「叔母は『なんで弟だけ死んで、艦長が生きとんや』と、どうにも気持ちがおさまらず、出版社を通じて艦長に手紙を出しました」
ほどなくして届いた返信には、艦と命を共にする覚悟であったが気を失っている間に救助されたこと、艦の戦没者に日々冥福を祈り続けていること、また家族へのお悔やみの言葉が丁寧につづられていました。
「叔母はその手紙を何度も読み返していました。弟の最期を知れたことに感謝こそしていましたが、当然、悲しみは消えません」
○命の重さや家族の悲しみを受け継いでいく
「祖母は、秀雄さんのほかに7人子どもがいたので『1人亡くなっても、子どもが多いからうらやましい』と言われたこともあったそうです。でも、『1人でも8人でも同じ。どの子にも同じように愛情を注いだ』と怒るように語っていました」
信夫さんは、静かに言葉をつなぎます。
「人間にそんな悲しいことを言わせた戦争こそいちばん悪いんです。二度とあってはなりません。奪われた命の重さを、家族の悲しみを、忘れてはなりません。この手紙と秀雄さんのことは、大事に家族に受け継いでいこうと思います」