- 発行日 :
- 自治体名 : 大阪府大阪市城東区
- 広報紙名 : ふれあい城東 令和6年11月号
[城東区×SDGs]
11.続けられるまちづくりを
■大坂冬の陣
豊臣秀吉の死後、豊臣軍と徳川軍が激突した、戦国時代最後の戦いとして知られている大坂の陣。慶長19(1614)年の大坂冬の陣で有名な鴫野・今福の合戦は、城東区を主戦場としたものでした。この戦いは、旧大和川の堤防上だけが戦場という珍しいものとなったと伝えられています。城東区内には、今でも鴫野・今福の合戦を伝える碑等が残されています。今回は、これまで区広報誌でご紹介したことがない3か所をご紹介します。
◇上杉景勝(うえすぎかげかつ)本陣跡の碑(八劔神社(やつるぎじんじゃ))
上杉景勝が徳川家康(とくがわいえやす)の大坂出陣命令に従い、米沢藩(山形県)を出立し、慶長19(1614)年11月25日に鴫野に到着し、八劔神社の境内内に本陣を構えたと伝えられています。翌26日未明に始まった鴫野の戦いは、豊臣軍と徳川軍双方に多数の戦死者がでたという激戦となりましたが、上杉景勝はこの戦いにおいて勝利したと石碑に記されています。
◇大坂冬の陣古戦場 今福・蒲生の戦い跡の碑(三郷橋稲荷大神横)
◇今福・蒲生・激戦地の跡 看板(城東商店街)
慶長19(1614)年11月26日未明、徳川軍の佐竹義宣が1,500人の兵を率いて突き進み、ついには豊臣軍が設けた柵をことごとく占拠しました。そのことを知った豊臣軍の木村重成(きむらしげなり)は来援し反撃に転じたため、佐竹隊は退きました。その後、上杉兵により木村兵は側面攻撃され、その苦戦を目撃した後藤基次(ごとうもとつぐ)(又兵衛(またべえ))が大坂城から遊軍を率いて駆けつけ、木村・後藤の兵が一斉に応戦し、戦闘は激化。佐竹隊の先方が敗退し、徳川軍が劣勢に陥りましたが、上杉景勝が救護に駆けつけて激しい銃撃戦となり、後藤基次らは大坂城に退去しました。
この今福・蒲生の戦いの跡として、今福西1丁目には碑や看板が残されています。
過ごしやすい季節になってきましたね。城東区の各所に残る「大坂冬の陣」の碑や看板をたどってみてはいかがでしょうか。