- 発行日 :
- 自治体名 : 大阪府河内長野市
- 広報紙名 : 広報かわちながの 令和7年8月号
平和は、当然に手に入るものではなく一人ひとりが戦争の悲惨さを知り平和を願うことではじめて実現するものです。
この節目に本市の戦争の記憶をたどり、平和について考えます。
■河内長野に残る戦争の記憶
第二次世界大戦時、戦力となる優秀な軍人を育てる学校が仙台から熊本まで全国各地にあり、本市には昭和15年から終戦までの間、今の大阪南医療センターがある場所に「大阪陸軍幼年学校」がありました。陸軍幼年学校は、13、14歳の幼いころから将来の陸軍将校と呼ばれる幹部を育てる学校でした。河内長野に陸軍幼年学校が建てられたのは、市街地ではないことと、楠木正成が戦った金剛山を見渡すことができ、楠公史跡があることにより、軍人精神を養うにふさわしい「楠公精神」を継承するためだと言われています。約5年の間に約1500人もの生徒がこの学校で学びました。学校建設にあわせて、南海鉄道高野線千代田駅と学校に続く専用道路が作られ、現在の千代田駅周辺にも当時の面影がうかがえます。
また、天見駅東側にある菊水台と呼ばれる所には天見防空監視哨(かんししょう)という敵の動静を見張る場所がありました。敵機が大阪市内へ来襲する時の通り道になっていたため、戦争末期には多くの敵機が上空を通過しました。監視員は円形の穴の中に入り、敵機の近づく音を聞いていました。現在も山林の中に円形の部分が残っており、本市の戦争遺跡の1つとなっています。
昭和14年ごろから食糧不足が深刻になり、日用品は切符制に、米は配給制になるなど市民生活にも影響をおよぼしました。学校では軍事教育が重視され、昭和16年には小学校が国民学校になり、昭和19年になると中等学校以上の生徒が授業をやめて軍需工場などへ動員されました。戦局は次第に悪くなり、昭和19年に学童疎開が始まりました。本市は農村部であるため、大阪市や堺市などからの疎開を受け入れ、児童は当時あった南天荘や金剛寺、一般民家をも宿所としていました。
終戦近くになると長野駅(現河内長野駅)が爆撃機に、大阪陸軍幼年学校がグラマン戦闘機に銃撃され、現在の鳴尾(どんど)公園付近に爆撃機が不時着したという話も伝わっています。
本市は、空襲による被害はほとんどなかったものの、戦争に関わる学校や監視哨といった施設、戦地へ出征した人、国防婦人会による慰問袋作りが行われたことなど、戦争の足跡は多く残っています。この地にあった戦争の記憶を受け継ぎ、未来につないでいくことは大切なことです。
「図説河内長野市史」、左記講演会資料より抜粋
河内長野の戦争遺産
~大阪陸軍幼年学校と楠公顕彰~
5月30日、河内長野市に残る戦争遺跡について、NPO法人文化遺産保存ネットワーク河内長野理事長、尾谷さんによる講演が開催され、29人が参加しました。大阪陸軍幼年学校で生徒たちが訓練や生活を送った様子や、学校で行われた楠公顕彰(けんしょう)についてスライドを交えた解説がありました。また、空襲に備えて天見村の山中に設けられた「防空監視哨」の跡など、市内各地に残る戦争の記憶にもふれ、未来の平和を考える貴重な機会となりました。
■私の戦争体験または伝え聞いた話
本紙6月号で募集した戦争体験・伝え聞いた話に、多くの投稿ありがとうございました。壮絶な戦争体験や当時の写真や手紙など貴重な品物、戦時中の食生活など河内長野での暮らしぶりが伝わるエピソードが集まりました。
・中国北部に出征した家族からの手紙。元気で軍務に励んでいる報告や小包のお礼、父母や家族への気遣い、地元の祭や、松茸・柿などを懐かしむ様子などびっしりと細かい文字で書かれている(高向・Kさん)
・祖父の結婚式の写真と、出征時に書いた手紙。覚悟を書いた内容には楠公精神の文字が見えます(錦町・バレーボール殿さん)
・女性が赤糸で千個の縫玉を一人一針ずつ縫い、出征兵士の武運長久を祈り贈った「千人針」(愛・いのち・平和展より)
・おそらく戦後間もないころと思われる祖母の写真。叔母にあたる女の子や赤ちゃんも帽子やエプロンでおめかししている(古野町・Yさん)
・戦後(昭和20年代)の教科書。戦前の単色刷りから、写真やイラストが多用されたカラフルなものに(上田町・Tさん)
・太平洋戦争が始まった昭和16年鹿児島の田舎町で生まれ、父は翌年召集、フィリピン・ルソン島で戦死しました。戦後、着るもの食べるものも不足する中、昭和23年小学校の入学式を迎えた全員が裸足の記念写真を、今の子どもたちはどう思うだろうか。私は後列右から3人目、歯を食いしばって生きてきたころの一枚です(旭ケ丘・Tさん)