- 発行日 :
- 自治体名 : 大阪府河内長野市
- 広報紙名 : 広報かわちながの 令和7年8月号
■死線を越えた学徒動員(手記)
阪野さん(95歳・栄町)
昭和四年生まれの私は、小学校に入学した。校庭に奉安殿(ほうあんでん)が設置され、中には天皇陛下のお写真が鎮座していた。私たちはそこを通るたびに立ち止まり、最敬礼をしなければならなかった。
六年生になった十二月八日、太平洋戦争が始まった。河内長野の町中は、「灯火管制」になり、電灯に黒い布をかぶせた。本も読めないほど、暗くなった。食事は一日二合三勺。成長盛りの私たちにとって、ひもじかった。食料品などの配給制度が実施された。
私は将来、小学校の教員になりたかった。十五歳の春、師範学校に入学。だが戦争が激しくなり、学徒動員の命令が下った。兵庫県の川西航空機会社に行くことになった。
ジュラルミンの板や風防ガラスなど、飛行機の部品作りが、主な仕事だった。油まみれのズボン姿。戦闘帽を被り、まるで兵隊さんのように敬礼する。工場では、鉢巻をした大勢の学徒が、電気ドリルで鋲打ちをしていた。風呂なんて一か月に一回。食事は豆御飯で、量も少なかった。草も食べた。体中にシラミがわき、歩いているのがわかるほどだった。不潔という感覚さえもないほど、それが日常であった。
空襲が一段と激しくなってきた昭和二十年五月十一日、工場が集中爆撃を受けた。私たちは、焼夷弾(しょういだん)が雨のように降る中、六甲山の麓へと一目散に走った。道中直径十メートルほどの大きな穴があいていた。ものすごい爆風の中、必死で転げるように走った。「神様助けて!」、「お母さん」と、狂ったように絶叫する友の声が、今も耳に残っている。一番乗りだった私たちだけが助かり、後の学生たちは、爆撃を受けて死んだ。
それから、阪神電車のレールの上を梅田駅まで歩いた。だが、今度は松下電器に動員命令が下った。豆かすの御飯に苦しみながら、またもやアメリカの機銃攻撃に逃げ回った。
昭和二十年八月十五日、ようやく終戦を迎えた。戦後民主主義の教育が始まった。平和はいい。命の大切さは言うまでもない。今私は、死線を超えて命あることに、感謝の思いでいっぱいである。
■手記に登場する航空機工場の関連施設
夏休み子ども平和施設見学会
戦後80年企画伝えよう!!平和といのちの大切さ
soraかさい(鶉野(うずらの)飛行場跡/兵庫県加西市)and戦争遺跡見学(滑走路・平和祈念碑・巨大防空壕/シアター上映・対空機銃座跡)をします。昼食は持参してください。
対象:市内在住の小学生とその保護者
日時:8月22日(金)午前9時15分~午後5時
集合:市役所
定員:20人(抽選)
申込:8月8日までに右記QRで(※QRは本紙をご覧ください。)
問合せ:人権協会(人権推進課内)
■戦時中の食や暮らしに関する体験談
・祖母から聞いた話。食べるものが少なく、えんどう豆の皮も食べた。働き盛りの男性が出征し男手が少なかった当時、祖母が電車の車掌さんをしていたらしい。空襲警報があり防空壕に入ってしばらく後、外に出たら堺の空が真っ赤だった(高向・Mさん)
・祖母から聞いた話。イナゴを空焼きにして食べた。芋は貴重なので、かさ増しに芋のツルも食べた。山へ山菜を採りに行ったが、それでも食料がなかった。都会からの疎開者が多く、貴重な着物と食料を交換してくれと言われることも多かった(日野・Uさん)
・戦時下に配給された玄米は、米つき瓶と棒を使って米をこすり合わせ、七分づき米にして節米に努めていた。米が尽きると代用食として麦やイモが配給された(愛・いのち・平和展より)
■インタビュー
ひとつの意見を妄信せず 多様な考えを大切に
外山 禎彦(とやま よしひこ)さん(90歳・緑ケ丘北町)
市内の小学校や公民館などで、戦争当時の日記をまとめた自著「学童集団疎開日記」の内容を基に講演しています。もともと高校で物理の教師をしており退職後に本を出版したことがきっかけで講演を始めました。
太平洋戦争は、私が国民学校1年生の時に始まり、5年生の時に敗戦となりました。当時大阪市住吉区に住んでおり、ある日「とうとうやりましたな」と近所の大人が話しているのを聞き、戦争の始まりを知りました。
小学4〜5年生の間、岸和田市の牛滝へ学童集団疎開しました。最初は林間学校に行くような気持ちで楽しみにしていましたが、集団生活は息苦しく、友だち同士の言い争いもありました。また、食料不足のため常にお腹が空いた状態で、食事はごはんがうっすらと入った木の弁当箱と、玉ねぎや小芋の入った汁物だけでした。
日々の生活も午前中は授業があったものの、午後からは滝での水遊びをしたり食料の買い出しに行くこともしばしば。男子は木銃をかついだり戦力になるための訓練もありました。先生に「子どもでも役に立たないといけない」と言われ、「イロハニホヘト」の手旗信号の練習もしました。戦争の情報は先生の話から知り、特攻隊の話もよく聞いていました。空襲は体験しませんでしたが、大阪市内が燃えている様子を見たことは覚えています。終戦は、「日本は無条件降伏した」という先生の言葉で知り、疎開先からは昭和20年10月に帰ってきました。
当時はとにかく戦争一色で、それ以外のニュースはほとんど伝えられていませんでした。「命を犠牲にしてまでしなければいけないことはない」ということを、みんなが理解できればいいと思います。
若い世代の方には、1つの意見一色に染まるのではなく、少数意見や反対意見も大切にということを戦争の教訓として伝えたいですね。
図書館で貸出できます
学童集団疎開日記
近代文藝社1995/3/1
外山禎彦(著)
「昭和二十年六月二十七日(水) 二十五度
朝会はなかった。午前中はいつもの通り授業であった。昼から五年生男子だけ木銃を持ってはげ山へ行きいろいろなことをした。まず銃の持ち方を習った。それから攻撃軍と守備軍に分かれて戦った。二回して攻撃軍と守備軍入れ替わった。どちらも僕らの方が勝った。その後、まつかさでなげ合いをした。」
「学童集団疎開日記」より文と挿絵
■平和を祈念して黙とうを
・原爆投下時刻に黙とうを
原爆死没者のご冥福を祈り、世界の恒久平和を願って1分間の黙とうをお願いします。
広島原爆の日
8月6日(水)午前8時15分
長崎原爆の日
8月9日(土)午前11時2分
問合せ:人権推進課
・戦没者を追悼し平和を祈念する日
1分間サイレンを鳴らしますので黙とうをお願いします。
日時:8月15日(金)正午
・令和7年度河内長野市戦没者追悼式
戦没者に対し哀悼の意を表し、恒久平和への誓いを込めて、戦没者追悼式を開催します。日時:11月15日(土)午前10時~11時
場所:ラブリーホール
※当日直接会場へ。
問合せ:地域福祉高齢課