文化 市史だより Vol.316

■自然との共生の模索 江戸時代の農業と鉄炮
食べ物がおいしい実りの秋。江戸時代のお百姓さんも、手塩にかけて育てた農作物をまもるため、動物たちへの対応に迫られました。

農業に生活の基盤をおく江戸時代、人と動物は今以上に近(ちか)しい存在でした。
戦国時代の終わりを告げる刀狩(かたなが)りののち、百姓が武器を持つ機会は少なくなりました。鉄炮も厳しく取り締まられましたが、村に全く無かったわけではありません。幕府は、百姓からの年貢に収入の基盤を置いていたため、動物による農業被害を防ぐため、村むらに鉄炮の利用を認めました。ただし、多くの場合、玉を発射しない音だけの威(おど)し鉄炮(でっぽう)で、しかも領主から預けられるものでした。
鉄炮を預かる人と村は、領主に対して誓約書を提出しました。猪・鹿・鳥類が農作物を荒らして困るので、威し鉄炮を預かること、玉は込めないこと、殺生をすれば、本人や村役人が処罰をうけること、他人には貸さないことなどを誓約しました。
天保2年(1831)、池田下村の鉄炮預り主(ぬし)藤兵衛の弟が鳥を殺生したという疑いが掛けられました。取り調べに際し、弟は、正月下旬に菜種の肥(こや)しを仕込んでいる際に「雁かごめ」が集まったため、追い払おうとして打ったが、殺生はしていない、と供述しています。とはいえ、兄弟であっても鉄炮を貸すことは禁止されていました。
享保6年(1721)、土浦藩土屋家領の「鉄炮御改帳(おあらためちょう)」では、和泉市域を含む25か村に34挺が確認できます。平野部や北池田・北松尾などでも鉄炮が認められていました。基本的に村の庄屋が1挺ずつ預かるもので、桑原村や今在家村(芦部町)、今福村、寺門村、坂本村、さらに池田下村や万町村・浦田村にもありました。
山の方へ行くほど、動物の生活域と重なることもあり、鉄炮の数は多くなります。村の「明細帳」によれば、たとえば和田村は1挺ですが、国分村や久井村では2挺、九鬼村や岡村は7挺、福瀬村は8挺、若樫村では15挺もありました。とはいえ、ほとんどが威し鉄炮でした。
特に山間部では、威嚇するだけでは農作物を守ることは困難でした。内畑村(岸和田市)の場合、当初は「紙玉おとし(威し)筒」で許可されましたが、「猪鹿狼」が田畑を荒らすため、のちに「玉込筒(たまこめづつ)」が許されました。
また、狩猟を生業とする人びとには、殺生可能な実弾が発射できる猟師鉄炮が認められていました。猟師がいない地域では、他所から雇い入れることもありました。
南面利・善正・福瀬・岡・北田中の5か村は、河内国錦部郡(にしごりぐん)の源蔵(げんぞう)を1年に4石7斗の給米を払い、狩人として雇っていました。この源蔵が隣家(りんか)に出かけて小屋を留守にした際に、鉄炮を盗まれる、という事件が起きています。彼は、この事件の時まで8年もの間、南面利村にある狩人小屋に住み込み、猪・鹿を防ぐ仕事を勤めていました。

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