文化 〔コラム〕忠臣蔵の散歩道(63)

■義士が切腹した毛利邸
「義士終焉(しゅうえん)軍神(ぐんしん)降世址(こうせいし)」碑の行方

明治18年(1885)に中央大学・初代校長に就任した増島六一郎は、近江彦根藩・井伊家の弓術師範の団右衛門の次男として安政4年(1857)に誕生しました。
団右衛門が61歳の時の子なので「六一郎」と命名されたといわれています。
法律を学ぶため開成(かいせい)学校から東京大学法学部へ進み、その後イギリスに留学し法律学を修めました。
東大講師を経て、英吉利(イギリス)法律学校(のちの中央大学)創立に参画、法学教育に携わることになります。
そして明治20年、自宅として麻布日ケ窪(ひがくぼ)〔現・港区六本木6丁目一帯〕の地を購入。
この地には、慶安3年(1650)に戦国武将・毛利元就(もとなり)の孫・秀元が上(かみ)屋敷を建てています。
秀元は、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは、徳川家康本陣の背後にある南宮山に布陣し戦いを傍観していました。
家康方からの出陣要請に「いま、兵に弁当を食べさせている」と答え、兵を動かさなかったことから、秀元の官位〔参議。唐名で宰相(さいしょう)〕に因み『宰相殿の空弁当』という言葉が生まれたとされます。
毛利長府藩は最初3万石、享保以後は5万7,000石余の家格で、上屋敷11,410坪、その地続きで抱(かかえ)屋敷2,677坪という広大な地を所有しました。

■元禄赤穂事件
元禄15年(1702)12月14日、徒党(ととう)を組んだ赤穂の浪人が本所(ほんじょ)の吉良邸へ討入り、吉良上野介(こうずけのすけ)義央(よしひさ)を討ち取るという大事件が起きました。
義士達は大名4家に御預けとなり、武林唯七(ただしち)・岡嶋八十右衛門(やそえもん)ら10名を長門(ながと)長府藩・毛利甲斐守(かいのかみ)綱元が預かることになります。
そして翌年2月4日、公儀から全員切腹の沙汰が下り執行されました。
嘉永2年(1849)、長府藩毛利家上屋敷の長屋で誕生したのが、のちの陸軍大将・乃木(のぎ)希典(まれすけ)。
江戸詰めの藩士・十郎希次(まれつぐ)〔馬廻(うままわり)・80石〕の三男として生まれ、10歳になるまで暮らしました。
赤穂義士が切腹したという地であり、乃木は親しみを持って成長したことでしょう。
しかし赤穂の旧藩主・浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)に関しては「武人の心掛け無し。なぜ突かなかったのか。斬るというのは愚劣」であると、江戸城内での刃傷事件時に吉良に斬り付けた長矩の行動については批判的であったとされています。
乃木は明治天皇の大葬が行われた大正元年(1912)9月13日夜、妻とともに殉死を遂げました。最後まで武士道精神を貫いた生涯でした。
さて、その地を購入した増島は「芳暉園(ほうきえん)」と名付けて、その地が辿ってきた歴史について石碑に刻み園内の各所に残しました。
赤穂義士に心酔していたのでしょう、庭園にある池の畔には、彼らを顕彰した碑が建てられました。
中央に「義士終焉軍神降世址」と大書し、右に「昭和己巳(つちのとみ)八月四日」、左には「増島六一郎誕辰建之」と印しています。
軍神とは、乃木の事。「昭和己巳」は昭和4年(1929)で、増島72歳の時です。
増島は昭和23年に亡くなり、同27年にはニッカウヰスキー東京工場として売却。庭園の池は、「ニッカ池」と呼ばれました。さらに昭和52年にはテレビ朝日に所有者が移り、六本木・麻布界隈は発展を続けることになります。
平成15年(2003)4月には「六本木ヒルズ」がオープンし、毛利庭園として都会のオアシス、憩いの場となり、周辺には近代的なビルが建ち並ぶオシャレな街へと変貌を遂げています。
その際、350年余りに亘る昔日の庭園は姿を消し、多くの石碑類も破棄されてしまいます。
ところが、「義士終焉軍神降世址」の碑は破却されることなく、ある個人宅に引き取られ大切に保存されていました。
今は都内の喧騒(けんそう)を避け、東京・世田谷区内の閑静な住宅街で、静かに“余生”を送っています。

大澤 努(おおさわ つとむ)〔赤穂事件研究会〕