- 発行日 :
- 自治体名 : 奈良県山添村
- 広報紙名 : 広報やまぞえ 令和7年5月号
■福参り
場所:山添村大字鵜山(うやま)
年代:不明
説明:毎年12月31日大晦日夕方6時に点火します。新年を迎える行事の一つとして藁を2、3把(わ)と数本の竹を持ち寄り組み立てます。各家から餅を2、3枚と葉つきミカンを串刺しにして近くに供えます。一年間の無事を感謝し、次年も良い年であるよう祈ります。火をつけると竹が燃え小さな竹は「パンパン」と大きなものは爆発音が大字内(おおあざない)にこだまします。その時大きな声で「ふくまる(福参る)コッコー」と叫びます。火の後始末をしてお供え餅を持ち帰ってかまどや炊事場に置きます。
他にも福丸呼び(上津(かみづ)、下津(しもづ))、福丸迎え(中之庄(なかのしょう)、広瀬(ひろせ))、福参りコッコ(片平(かたひら))など、同様の行事が山添村の各地にあります。
■架橋記念碑
場所:山添村大字広瀬(ひろせ)
年代:昭和4年前後
説明:現在の広瀬橋付近は「広瀬の渡し」がありました。広瀬の集落が無かった時代は、旅の安全を祈願する祠(ほこら)(西方寺(さいほうじ)の前身)が対岸にあったといわれています。小字名の「大門(だいもん)」「念仏堂山(ねんぶつどうやま)」などの地名は時代背景を想像させる名残があります。近くには地蔵山(じぞうやま)という室町時代の経塚(きょうづか)もあります。
昔は隣村へ行く手段が川沿いを歩くしかありませんでした。以前は雨が降ったら、板をめくりあげる板橋(広瀬の板橋)がありました。対岸には耕作地があり、そこに残る小屋はいざという時に宿泊する場所でした。大雨の時は自宅に帰れないことや危険な板めくりの作業がありました。
広瀬区民にとって、安全な橋梁の建設が悲願でした。広瀬区民の借入金と寄付により、当時の3万円(現在の3億円程か)で昭和4年に架橋したのが吊り橋でした。全長89m、幅3m、高さ12m。完成後は名張市から遠足に来るぐらい珍しかったようです。この借入金を返済するために広瀬倹約組合(ひろせけんやくくみあい)が結成されました。
昭和の終わりごろにはワイヤーの一部が切れ、重量制限のある橋となりました。その後、コンクリートの橋にする際に、村道から県道に昇格し、現在の形になってきました。先輩諸氏の労苦を今にとどめるのがこの架橋記念碑です。鎖のある石は、めくった板をつなぎ留めていたものです。