くらし 知っておきたい上関 ~残したい大切なひと・まち・こころ~

上関町在住のシニアの方々にお話を聞き、後世に伝えていきたい事や守りたい技術、ふるさとへの想いなどをお伝えするコーナー。
読んでくださる皆さまそれぞれの、心の栄養となりますように。

「これまでずっと挑戦してきたけど、実は戦うよりも守る方がずっとエネルギーが必要なのよ」前回の最後に紹介した禎子さんの言葉。戦うという言葉が気になり話をうかがっていくと、その意味が当時の日本の社会背景と共に分かり始めました。

■男性中心の社会の中で
禎子さんが上京した1972年は高度経済成長の終盤、景気も安定期に入っていた頃。生活費の為アルバイトで始めた製薬会社勤務でしたが、当時の女性は会社勤めといっても事務職がメインで、その他にお茶くみや机拭き、ゴミ出しもなぜか女性の仕事とされていました。女性が働くのはあくまでも結婚までの数年で、結婚後は良妻賢母となり夫を支えて家事・育児をすべきという意識が浸透していた時代でした。

※高度経済成長期…戦後1955年から約20年間日本が驚異的な経済成長を遂げた時期。基本的なインフラが整備され、また復興の為にも仕事が増え国民の所得が上がり、生活水準が急速に高まった時代。工業も発展し、白黒テレビや冷蔵庫、洗濯機などの家電製品が次々と発売され家電ブームも起きた。

「年功序列で定年55歳の時代、そもそも女性は20代前半で結婚するもので、30歳以降勤める人が少なかったのよ。会社に長く居れる雰囲気でもなかったし、昇進もなかった。おまけに50歳から女性は給料をカットされたのよ!信じられる?」(え!信じられない…)禎子さんが営業に行った先で「なぜ女が来るんだ!」と言われたこともあったくらい、男性中心の社会でした。

「家庭でも男の子たちは跡取りとして大切に教育され、女の子は家の仕事が主で勉強は二の次。女は意見を表に出すなという風潮。私はそれにずっと矛盾を感じていたのよね」と禎子さん。
実際に勤めていた会社の中でも、長年バリバリ働いていた女性の昇進はなく、若手男性社員たちが次々に昇進していくことに疑問を感じていました。ある日禎子さんが「仕事ができる女性が昇進できないのはおかしいのでは?」と会議で意見をし、後にその女性が昇進したこともあったのだとか。自分のことのように嬉しかったと、当時を振り返ります。
また若い事務職の女性たちは電話対応やお茶出しなどの雑務に追われたり、終業ぎりぎりに仕事を回されたりと、理不尽なことも多かったと。おかしいことに関してはハッキリと物を言う禎子さんは、電話対応にどれだけ時間がとられているか実際に計って数字に表し、上司に改善をお願いしたこともありました。
「上司や社長に正々堂々と意見をするには決心が要るのよ。同時に理路整然と伝えるための準備や戦略も重要なの」
女性への風当たりが強い時代に、臆せずに行動する力と勇気。東京だけでなく海外でも見分を広げていた禎子さんだからできたのかもしれません。まさに1970年代からのウーマンリブを担った一人と言えます。

※ウーマンリブ…1960年代から70年代にかけて、女性の権利向上を目指した社会運動。ちなみに「男女雇用機会均等法」は1985年に制定された。

「会社が社員教育としてパソコン教室や英会話、書道などの習い事にお金を出してくれたり、バブルの恩恵もたくさんあって、海外出張や海外旅行にもたくさん行かせてもらったりしたわ」禎子さんのアルバムには、旅の写真と一緒に当時の切符やパンフレットもきれいにまとめられていて、見ているだけで旅をした気分になります。

■バブル期の明暗も経験し
そんな中、50歳目前の禎子さんは人生のその先を考えるようになりました。50歳で会社を辞め、失業保険を受給しながら学校に通い、簿記3級を取得します。同時にエステの技術も学び、その後友人と二人でエステ関連の会社を立ち上げました。が、残念なことにその会社はバブル崩壊の影響で倒産してしまいます。しかし禎子さんは諦めませんでした。「エステはいくつになってもできるし、手を使う仕事はボケないから」という師匠の言葉を信じ、また兄の助けもあって再び1人で起業。「マシンを導入してマンションの1室でサロンエステを始めるなんて、まさかここまで分野違いのことに挑戦するとは思わなかったわよ~(笑)でもたくさんの女性が通ってくれたのよ」お客様の中には芸能人やデビュー前の女優のたまごたちもいたのだとか。バブル期のプラスもマイナスも経験された禎子さんの話に、私はただただ感服するばかり。
禎子さんはサロン経営と同時に派遣社員として週2で会社に勤め、2足の草鞋を履きながら10年間働きました。そして62歳、生まれ故郷の上関に戻ってきたのでした。

■人生100年時代を生きるヒント
「50代は働き盛り。でも私は50で自分を見つめ直し、その後の人生をどう生きるか考えたのよ。そのお陰で今の充実した老後があると思うわ」戦い続けてきた禎子さん、現在のはつらつとした姿は自分としっかり向き合ってきた証でもあるのでしょう。
今年83歳、長年務めてこられた婦人会の会長としてもまだまだ現役です。企画・運営、そして経理も担っています。ですが書類作りは以前の倍の時間がかかり、色々と忘れることもあるのだとか。「ショックはショックだけど、気にしていたら落ち込むばかり。だから考え方を変えたの!昔より時間があるんだから急がず1日かけてやればいい。忘れ物をしても家に歩いて取りに帰るから、足のトレーニングになる!とプラス思考よ」と昔の面影そのまま、口角の上がった禎子スマイルです。 「どんなに努力しても年はとっていくし、こればかりはどうしようもないわよね。そして生まれる時も死ぬ時も一人と言うように、やはり最後は一人。何より幸せは人それぞれ違うもの…。それならいかに自分が幸せな心持ちで日々を生きるかなのよね」禎子さんのさりげない言葉の中には、たくさんの生きるヒントが込められていました。

部屋の貼られた言葉に、禎子さんの心がけが表れている

人生100年時代をいかに生きるのか、どのような心で生きていくのか…。50歳を過ぎたミドルエイジの私の心に刺さり、もう一度自分を見つめ直すきっかけを頂いた取材となりました。

取材:林未香