文化 ふらっと徳島 歴史と文化財めぐり 第21回鷹匠町-武家地から歓楽街へ-

【ふらっと徳島 歴史と文化財めぐり 第21回鷹匠町(たかじょうまち)-武家地(ぶけち)から歓楽街へ-】

鷹匠町は、江戸時代から続く歴史的な地名です。鷹匠(たかじょう)とは、殿様が鷹狩に使用する鷹を調教した武士です。彼らの屋敷が集まっていたので鷹匠町の地名が生まれました。鷹狩とは飼い馴らした鷹を放って(はなって)野禽(やきん)・小獣(しょうじゅう)を捕えさせる狩猟で、古代から行われました。戦国時代以降、武家が独占し、江戸時代には徳川将軍家(け)を頂点とする御鷹(おたか)の支配が確立しました。鷹狩は将軍や大名など、一部の者に限られた、武士のステイタスシンボルとなったのです。
徳島藩の鷹匠(たかじょう)は、江戸時代を通じて20人前後いましたが、禄高は4人扶持・支配7石程度で、現在の金額にすると年収142万円ほどになります。鷹匠(たかじょう)は、毎年8月から翌年2月までの間、鷹を自宅で預かって飼育していました。殿様の鷹なので家族よりも大切にして、気を遣うことが多く、鷹匠(たかじょう)は長生きができなかったとされます。
江戸時代の鷹匠町は、現在の徳島市鷹匠町1丁目付近にあたります。寛文(かんぶん)5(1665)年の「阿波国渭津城之図(あわこくいのつじょうのず)」(徳島県立博物館蔵(ぞう))で初めて確認できるので、17世紀の中頃に成立したと考えられます。これ以降、同地は鷹匠町と呼ばれましたが、幕府が出した生類憐み(しょうるいあわれみ)の令の影響を受けて、元禄6(1693)年9月には「小川町(おがわまち)」に町名が変えられました。後(のち)に鷹匠町に戻っています。
江戸後期、同町には鷹匠(たかじょう)はほとんど住まなくなりました。その理由は、周囲に武士や足軽の屋敷が立ち並び、鷹の生育に向かなくなったからと考えられます。
鷹匠町は、町人地(ちょうにんち)として賑わった富田町の南隣に位置し、しかも交通の便(べん)が良かったため、明治時代以降、飲食店が増え続け、徳島を代表するほどの歓楽街へ変わっていきました。

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