- 発行日 :
- 自治体名 : 徳島県徳島市
- 広報紙名 : 広報とくしま 2025年7月15日号
助任(すけとう)は、富田や津田、寺島と並んで古い地名です。鎌倉時代の初めに名東郡(みょうどうぐん)に成立していた国衙(こくが)領に「南助任保(みなみすけとうほ)」があり、800年以上前から存在していたことになります。ただし南助任保(みなみすけとうほ)の範囲は広く、城下町が収まってしまうほどでした。
天正(てんしょう)14(1586)年に徳島城が築かれ、その周囲に城下町が開かれると、助任の地に、武家地と町人地(ちょうにんち)が置かれました。助任本町の通りを境に、東側が町人地、西側が武家地となりました。
武家地の居住者は、享保(きょうほう)17(1732)年の「御家中屋敷坪数間数改御帳(ごかちゅうやしきつぼすうけんすうあらためごちょう)」によると、隣の前川と合わせた数ですが124人で、富田に次ぐ多さでした。住民は、上級藩士から扶持米(ふちまい)を支給された無足士(むそくし)までと広範です。屋敷の広さは平均633坪で、城下平均より100坪ほど上回る大きさ。武家地助任には、大きな屋敷が集中していました。
町人が住んだ助任町は江戸時代の初めからあり、貞享(じょうきょう)2(1685)年の「市中町数間数並家数(しちゅうちょうすうけんすうならびにいえすう)」では、家数は105軒。初めは、殿様が食べる野菜や魚はすぐに入手できるよう、商店は城近くの内町に設けられましたが、17世紀後半には、助任町にも同じ商売が許され、その重要度が増しました。
吉野川の土手から助任本町(すけとうほんちょう)を南に向かって行くと城山が真っ直ぐに見えます。江戸時代の初め、参勤交代で大坂に向かう時には、城を出て助任本町を北に進み、吉野川から出航しました。助任本町の直線道は参勤交代のシンボルロードだったのです。
助任本町を南に向かって進むと城山が眼前に見えますが、東に迂回して助任橋を渡らないと徳島城には到達しません。それは、すぐに攻め込むことができないようにした、城を守るための備えだったのです。
徳島城の守りに思いを巡らせながら歩くと発見があるかもしれません。
問合せ:徳島城博物館
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