- 発行日 :
- 自治体名 : 愛媛県松野町
- 広報紙名 : 広報まつの 令和7年11月号
前回紹介したように、河後森城の発掘調査で発見した城門の痕跡は、岩盤を掘り抜いた2基の柱穴を使って建てられたタイプがほとんどでしたが、例外的に本郭(ほんかく)の周囲では4本の柱を使ったとみられる門跡が2箇所で検出されています。
4本の柱によって築かれる城門の種類としては、大きく2つのパターンがあります。一つは、薬医門(やくいもん)と呼ばれる門で、正面側に扉がつけられた鏡柱(かがみばしら)2本とその後方に鏡柱を支えるための控柱(ひかえばしら)2本によって構成されています。また、その上に冠木(かぶき)や梁(はり)、桁(けた)などの部材を組み合わせて大きな屋根がかけられていました。そして、もう一つは、櫓門(やぐらもん)です。開閉する基盤は薬医門と同じですが、屋根だけではなく櫓(やぐら)をのせている点が異なっています。
河後森城で検出した4本柱の門跡の場合、城主の御殿(ごてん)が置かれた本郭で見つかったものは、その格式の高さから薬医門であったと想定されます。一方、本郭の西、西第二曲輪(くるわ)と西第三曲輪の間の堀切(ほりきり)で見つかったものは、道として利用された堀底の途中に設けられていました。曲輪と曲輪の間で、しかも城外側と接する位置関係から、この門は防御性の高い櫓門であった公算が大きいと考えられます。
このように、河後森城では、場の機能に合わせて様々なタイプの城門が選択されていたようです。
(続く)
