- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県行橋市
- 広報紙名 : 広報ゆくはし 令和7年9月号
◆在郷の指導者 守田蓑洲(さしゅう)
◇沓尾で生まれ水哉園に入門す
守田蓑洲は、沓尾にある市指定史跡の守田蓑洲旧居を建てたと伝わるその人である。守田家の第二十七代当主であり、大庄屋を務めた第二十五代当主・良右衛門の五男として文政七(一八二四)年に仲津郡沓尾村で生まれた。諱(いみな)は房貫(ふさつら)、通(とおりな)は精一(せいいち)と称し、蓑洲は号である。天保八(一八三七)年に十三歳で水哉園に入門した。塾では最上級まで昇級し長く塾長を務め、師である村上仏山を助けた。
◇庄屋となり郷土の発展に努める
嘉永三(一八五○)年に二十六歳で沓尾の庄屋となり、文久元(一八六一)年の干拓事業では現場責任者となって、約八十余町(約八十ヘクタール)の農地を干拓した(今井の文久新開)。その功績が認められ、四年後に大庄屋となった。
明治維新以降は、植樹や稲の品種改良など郷土の豊穣化に努めた。さらに、教育事業を熱心に進め、村内に育英小学校(今の今元小学校)を創設し、就学困難者には私財を投じて多くの経済的な援助を行った。この功績により明治十六(一八八三)年に文部省から表彰を受けた。
◇晩年の蓑洲
明治二十年代には、守田家の先祖と戦国時代に主君であった杉家の御霊(みたま)を祀る松山神社を沓尾山に創建した。
明治二十七年、古稀を祝う『古稀寿賀帖(こきじゅがちょう)』が贈られた。これは、伊藤博文や山県有朋ら維新の元勲をはじめ、各界の名士から寄せられた一八七枚の色紙からなる貴重な文化遺産である。これは、水哉園の後輩で親戚でもある末松謙澄や杉家の末裔である聴雨(ちょうう)が奔走して集めたものと思われる。
晩年の蓑洲は、書道を楽しみ文士・詩人と交わり詩歌を詠んだ。御所ヶ岳中腹の仏山の蔵詩巌の題字は蓑洲が認(したた)めた。明治四十三年に亡くなり、享年八十六であった。
(村上仏山・末松謙澄顕彰会 堀史雄)