- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県筑紫野市
- 広報紙名 : 広報ちくしの 令和7年6月号
■「TUNAGU II」とは
人と人、心と心をつなぐ、世界とつなぐ―人権尊重のまちづくりの一環として、さまざまな人権問題について市民の皆さんと共に考えます。
■萬歳(まんざい)から漫才(まんざい)へ
そのだ ひさこ
3月、映画監督の篠田正浩さんが94歳で亡くなられた。私は映画だけではなく、篠田監督の書かれた本『河原者のススメ』なども読んでいた。訃報を聞いてその本の文言がふと、浮かんだ。ご夫婦である集会に行ったとき、「おまえたち、河原乞食はこんな所に来るな!」と断られたということが書かれていた。
河原乞食とは、江戸時代から明治の初めごろまでの歌舞伎役者の呼び名である。歌舞伎は歩き巫女(みこ)の踊りや人形づかいの芸など、中世の雑芸能の集大成といわれている。
この中世の雑芸能の中で、今、圧倒的にテレビ画面にあらわれるのは「お笑い」系の「漫才」だと私は思う。私はさまざまなお笑い系の番組が大好だ。「うふっふっふ」、「ガハハっ」と、誘われる「笑い」には社会風刺的な鋭い指摘だけではなく、心を軽くしてもらったりもする。昨今、気付けばあらゆる番組でたくさんの芸人と言われる人たちが活躍し、日夜、画面をにぎわわせている。
私は、大学の部落問題論や同和教育論を20年余担当した。その中で、[被差別民の歴史]を中世までさかのぼり、資料をいろいろ手さぐりするようになった。漫才もその中の一つである。古代、中世から、戦後のある時期まで日本の主要産業は米づくりや農業であり、それが多数派だった。そのような中で、芸能、芸術、医術、石工、革加工などの職人たちは、貴重な専門職だったが、社会的には少数派だった。その中で、中世では能は「乞食の処業(踊り)」、漫才をする人は「乞食法師」といわれていた。
その漫才は中世の鎌倉時代の資料には、「千秋萬歳(せんずまんざい)トテ、コノゴロ正月ニハ 散所ノ乞食法師ガ仙人ノ装束ヲマナビテ(真似をして)、小松ヲ手ニササゲテ推参シテ 様々ノ祝言ヲ言イツヅケテ…」(『名語記』…鎌倉時代の言葉の辞典)と書かれ、「萬歳」と表記されている。この萬歳の「歳」というのは[福の神]さまの名前であり、萬歳は豊作を願って、福の神を呼びこむ芸・門付芸だった。たいていの場合、舞手の「太夫」と鼓打ちの「才蔵」の二人一組で踊っていた。太夫が烏帽子(えぼし)をかぶったり、背中に大袋を背負ったりした絵が残されている。
この門付芸の「萬歳」は、やがて、福の神を呼びこむという呪術性が薄れて「万才」となり、その後、現代の完全なお笑いのみの芸、「漫才」に変わっていった。その変遷とともに、「まんざい」の漢字の表記が変わってきたのだ。
それぞれの時代の中で、その時代の少数派と多数派が変わっていき、価値観は変化していく。例えば、乞食、河原者と言われていた人の職能は現在、隆盛したり、国宝になったりしている。この価値観の変化という考え方は、人権問題を考えるとき、不可欠であると私は思う。「貴いと賤しい」の価値観を創り出したのは人間であるが、もともと、昔も今も、人間にはどんな貴賤も存在しない!
■福や幸せを届ける民俗芸能
筑紫地区の多くの教員や行政職員、市民が参加して、今年も筑紫地区人権・同和教育研究大会が開かれました。その分科会で、被差別の立場に置かれた人々が創り上げ受け継いできた「阿波(あわ)木偶(でこ)まわし」の実演と講義がありました。今も初春の時期、四国の各地をえびす・翁などの神様の浄瑠璃人形とともに家々を回って演じ(門付け)、厄を払ったり五穀豊穣を願ったりされています。分科会が終わった後も、抱えた人形の腕を伸ばし、一人ひとりの参加者に「福がきますように」と言葉をかけていただきました。
このように被差別の人々が起こした民俗芸能が、今も、人々に福や幸せやうるおいを届ける活動として受け継がれているのです。
問合せ:教育政策課