- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県太宰府市
- 広報紙名 : 広報だざいふ 令和7年3月1日号
■明治の大合併と揺れる太宰府地域
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大日本帝国憲法の制定・公布に先立つ明治21(1888)年4月、市制・町村制が公布され、翌年4月から各地域で順次施行されます。この時、行政にかかる過度の負担を軽減し、かつ町村有財産の運用での財政維持を理想とする「不要公課町村(ふようこうかちょうそん)」を目指した町村合併が行われ、全国で新しい行政区画が編成されました。
太宰府地域でも合併が行われ、太宰府村と水城村が成立します。この時に起こったのは、江戸時代からの村々の連合を引き継ぐ形で明治10年代に置かれた行政単位「分画」の解体と再編でした。太宰府分画はそのまま太宰府村になりますが、坂本分画と共に水城村を形成することになる向佐野分画は二分されて、一部(下大利・上大利・牛頸)は筒井分画と一緒に大野村(現在の大野城市)に入ることになりました。
この時の合併案は県が作成し、郡長を通して分画のトップである戸長(こちょう)に内示がありました。ところがこの案に対しそれぞれの分画や村々が異議を申し立てました。特に向佐野分画は単独で一村となることを主張、いっぽう筒井分画は土木費の負担問題を理由にこれに反対し、県知事に上申や請願を行っています(『大野城市史 下巻』『太宰府市史 通史編III』)。
最終的には筒井分画の言い分が認められ、向佐野分画の意見は退けられますが、向佐野分画の請願書を見ると、生活文化に対するイメージによる合併の拒絶もあったことが分かります。「乙金・白木原は除くが、筒井分画には郡役所(雑餉隈)や県道の要地があり風俗が派手である。絹の着物を着て、近隣に行くにも車馬を使い、農作業には下駄をはき、雨には毛布を纏(まと)ってコウモリ傘を使う。坂本分画もしかり。いっぽう我々は、終日農作業に勤しみ、雨の日には蓑笠(みのかさ)・草鞋(わらじ)草履(ぞうり)を着ける(『太宰府市史 近現代資料編』)」。
交通の要衝である繁華な地域とは相容れない、とする農村地域同士のシンパシーも大いに影響し、合併は紛糾したと思われます。
太宰府市公文書館
藤田(ふじた)理子(まさこ)