文化 太宰府の文華~公文書館だより(133)~

■武藤資頼(むとうすけより)と大宰府ページID:7241

中世の太宰府を語る時に、武藤(少弐(しょうに))氏を抜きにしては話が成り立ちません。そこで今回は、武藤氏が初めて太宰府にやってきた頃の資頼の代について紹介します。
資頼は建久(けんきゅう)6(1195)年3月以降に太宰府の地に下ってきたと考えられ、それは天野遠景(あまのとおかげ)が鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)の職を解任されて鎌倉に帰ったのと入れ替わりでした。そして遠景の後を受けて、朝廷の地方官庁である大宰府を掌握し、現地役人の筆頭である執行(しゅぎょう)の地位に就いています。続いて大宰帥(だざいのそち)・大宰大弐(だざいのだいに)に次ぐ大宰府の官職である大宰少弐(だざいのしょうに)に任ぜられており、その時期は近年の研究によると、承元(じょうげん)4(1210)年6月以前とされています。自身が大宰府の役職に任じて現地組織の長となることによって、遠景の時より直接的に大宰府を動かせるようになったと言えるでしょう。
その一方で、鎌倉幕府は各国に守(しゅ)護を設置し、九州でも守護が任命されるようになりました。これに伴い、資頼は筑前国(ちくぜんのくに)(現福岡県西部)・豊前国(ぶぜんのくに)(現福岡県北部〜大分県北部)・肥前国(ひぜんのくに)(現佐賀県〜長崎県のうち壱岐・対馬以外)3カ国の守護に任ぜられています。(昨年12月号では対馬も含めていましたが、誤りでした。対馬は子の資能(すけよし)の代に初めて守護在職が確認できます。)任命の時期は、建久8(1197)年4〜5月までさかのぼると言われています。そして政庁を太宰府の地に置き、「宰府守護所(さいふしゅごしょ)」と呼ばれていました。
資頼をはじめ鎌倉時代の武藤氏歴代が、政務に際して出した文書を見ると、大宰府が出した文書と、宰府守護所が出した文書の2通りが並存していた点が特徴的です。大宰府が出した文書は京都の朝廷からの命令を実行しており、宰府守護所が出した文書は鎌倉幕府からの命令を実行していると指摘されています。(資頼の文書については『市制施行30周年 太宰府人物志』82頁に詳しく解説しています。)
このように武藤資頼は、大宰府の現地責任者としての面と、3カ国の守護としての面を合わせ持っていたことが分かります。

太宰府市公文書館
大塚(おおつか)俊司(しゅんじ)