- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県太宰府市
- 広報紙名 : 広報だざいふ 令和7年5月1日号
■古代都市の痕跡(左郭8坊路)
古刹・観世音寺の東側に広がる史跡地では、花いっぱい運動として毎年、本市で種まきをしています。春は菜の花、秋はコスモスが見ごろを迎えます。
この土地は国の史跡「観世音寺境内及び子院跡」の一部で、遺跡が保存されていますが、真ん中を南北にのびる畔道(あぜみち)と水路、そして両側に広がる農地が織りなす景観は、農村だった昭和以前の太宰府の雰囲気をよく残しています。
ここで注目するのはこの畔道です。じつは古代の道が踏襲され、現在の姿となった古道なのです。
奈良時代に「天下之一都会(てんかのいちとかい)」と記録されている古代都市・大宰府条坊は、奈良・京都の都の半分以下の規模ですが、都と同じような理念のもとに設計され、東西南北に整然と碁盤目のように区画された街区を持つ都市でした。当時、大宰府政庁を中心とする街区(がいく)の呼び方があり、最大時は南北22条、東(左郭)12坊、西(右郭)8坊あったことが知られています。
この畔道は、政庁前の南北路(朱雀大路)から東へ8本目の道、通称・左郭8坊路と呼ばれる道の位置にあります。発掘調査では11世紀末〜13世紀後半に埋没した南北溝が何本も見つかっており、この位置が街区の境としてずっと使われていたことを示しています。そしていつの頃からか水田の畦道となり、現在の姿となったのです。畦道の両側に水路があることも発掘調査で検出される両側溝をもつ条坊道路と共通し、古代の道の姿までも継承しているようで感慨深いものがあります。
観世音寺に伝わった平安時代の古文書を分析すると、観世音寺が所有する寺域の東の範囲は左郭8坊、つまりこの南北道までの広大な寺域だったことがうかがえます。またいくつかの史料から、寺域の東沿いに「大野河」と呼ばれた川が流れていたようですが、11世紀後半以降にはなくなったようで、一帯は盛土され中世の土地利用が始まります。
私自身かつては、遺跡は地下にあるものと思っていましたが、何気ない田園風景にも千年以上前の都市景観が残っていることに驚きました。悠久の歴史に思いを馳せながら、太宰府が育んできた景観の中からこうした痕跡をたどるのも楽しいものです。
文化財課
井上(いのうえ)信正(のぶまさ)