- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県添田町
- 広報紙名 : 広報そえだ 令和7年6月号
■鍋島家の信仰と英彦山神宮上宮の再建記録
町内には指定・未指定にかかわらず多くの文化財が残されています。これら文化財がどのようにして大切に守り継がれてきたか、その過程を明らかにすることは困難です。今回は、記録が残る英彦山神宮上宮社殿の再建などの歴史に触れます。
英彦山神宮の上宮社殿は、江戸時代の再建や修繕などの記録が詳細に残されています。上宮社殿は江戸時代に何度も焼失しており、その度に再建や修繕が行われてきました。その作業を中心的に担っていたのが、肥前国佐賀藩の鍋島家です。
今に残る上宮の宝殿と拝殿も天保13(1842)年と弘化2(1845)年に佐賀藩主の鍋島斉正によって再建されました。鍋島家の歴代当主は英彦山を篤く信仰しており、その理由の一つに、初代藩主の直茂の祖父にあたる清久の逸話が挙げられます。清久は英彦山へ参詣する途中、誤って崖から落ちて気を失いましたが目を覚ますと無傷でした。そして気が付くと左手には仏像を握っており、これは英彦山のご加護と考えて仏像を佐賀の徳善院というお寺に安置し、大切にお祀りしたところ、鍋島家は繁栄したと伝わり、歴代藩主にも英彦山への信仰が受け継がれていきました。
天保13年の上宮宝殿の再建記録では、佐賀藩との工事にかかわるやり取りが記されており、大変興味深いものです。この記録は工事内容のほかに、工事を取り仕切る佐賀藩の役人が交代した時には、英彦山の最高職位である座主の教有が食事を接待したことや、雨天時には大工たちが作業を止め、大南神社へ参詣したことなど、色々なことが記されています。また、佐賀藩の役人は、英彦山には山伏の家が約300軒もあるので、それぞれが月に1度、上宮へお参りすると考えても、1日10人の山伏が上宮を訪れるはずだが、10日経っても誰一人見ないことに驚きを隠せていないことも記されています。
現在、英彦山神宮では約150年ぶりに上宮社殿の本格的な保存整備工事に取り組んでおり、上宮への参拝はできません。上宮周辺には工事資材などが置かれ、大変危険な状況のため立入禁止となっておりますので皆さんのご理解とご協力をよろしくお願いします。
〔文・西山紘二学芸員(商工観光振興課歴史文化財係)〕
問合せ:役場商工観光振興課歴史文化財係
【電話】82-1236