- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県築上町
- 広報紙名 : 広報ちくじょう 2025年3月号(244号)
■第一四七回 古田峰太郎(ふるた みねたろう)と高法山(こうぼうざん)
築上町では明治から大正・昭和時代にかけて神社の神事に合わせて開催される宮相撲が盛んで、力士の記念碑が町内各地に建てられています。
写真は上人堂墓地(湊)の一画に建つ記念碑で、大相撲の地方巡業等に尽力した大日本相撲奨励会築上郡支部長、古田峰太郎(一八六〇―?)の功績を称えるため、昭和十三年(一九三八)に建てられました。基壇石(高さ三メートル)に自然石(高さ二メートル)が載る総高五メートルの巨大な石碑で、石材はここから八キロメートル上流の極楽寺から二十人の若者が一週間かけて運びました。基壇には賛助会員百八十二人の名前が刻まれます。
その中の一人、高法山喜代松(一八九八―一九八九)は大正二年(一九一三)、大阪大相撲協会に入門し、大関を務め、巡業で訪れた大分県宇佐市で、後に昭和の名横綱といわれる「双葉山」を勧誘したことで知られます。
高法山は、巡業興行の合間に宇佐の海岸を散歩中、炭俵を軽々と担ぎ運ぶ港湾労働者の少年を眼に止め、熱心に勧誘しました。高法山の熱意が通じ、昭和二年(一九二七)、双葉山は立浪部屋に入門し、昭和十二年(一九三七)五月、横綱になり、その後六十九連勝の大記録を達成しました。
そのような高法山の現役時代に古田峰太郎は特に可愛がり、自身が椎田駅前で営む旅館に泊め、もてなしました。現役引退後は古田の世話で湊に住み結婚し、雑貨店を営みながら、宮相撲や子ども相撲の行司を務めました。
昭和十五年(一九四〇)には葛城小学校に本格的な相撲場が造られますが、その土俵開きの儀式を高法山が執り行ったといいます。
また戦時中は、出征する若者たちを乗せ椎田駅を通過する軍用列車を毎日見送り、戦後は、上人堂墓地内に戦没者墓地を建設するために尽力するなど、地域の発展に貢献しました。
(文化財保護係 馬場克幸)
※池永敬「高法山の相撲人生」『郷土誌しいだ第三号』一九九五年を参考にしました。記念碑前に今月、説明板が設置されます。
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