文化 とす新風土記〜「鳥栖市誌」を読む〜 第119回

■「勝尾城(かつのおじょう)を知る」第15話 ―勝尾城の支城『高取城(たかとりじょう)』―
高取城(標高290m、牛原町・山浦町)は、高取山頂上に築かれた山城で、南西の雲野尾峠(くものおとうげ)、南東の中原・山浦方面から勝尾城への侵攻を阻む位置にあります。
『肥前国基肄郡瓦門戦地之図(ひぜんのくにきいぐんかわらもんせんちのず)』や『筑紫家文書』中の『筑紫良泰筑紫家由緒書(ちくしりょうたいちくしけゆいしょがき)』などの江戸時代の史料には、筑紫広門(ひろかど)の庶子・晴門(はるかど)が高取城に在城したとあります。
実際、晴門の屋敷伝承地の裏山に高取城は位置します。しかし、晴門が高取城に居住した証拠はなく、高取城の創築年代も不明です。
次に、高取城の構造を見ていきます。城地中央の最高所が主郭(本丸)にあたりますが、岩塊(がんかい)が露出した自然地形のままで、曲輪(くるわ)としての形状は整えられていません。
城内の主要な空間は、主郭の東西に延びる尾根上の階段状に配列された小規模な曲輪群です。そのうち西半分は、西端の曲輪に土塁・堀切(ほりきり)を設け、城地の西端が明確ですが、全体的には簡素な造りです。
一方、東半分は平坦地を造成し、幾重にも帯曲輪(おびぐるわ)と横堀を互い違いに配置しています。南東端は土塁・堀切で周辺との遮断を図るなど、大きく手が加わっています。また、東辺中央部に虎口(こぐち)(城の出入口)を設けています。
以上のような高取城の構造は、16世紀後半の改修によって成立したと考えられます。つまり、島津氏の侵攻が迫る中、筑紫氏が勝尾城と支城群を連携させた防衛を図るべく、高取城の東半分を重点的に改修したことが想定できるのです。一方、主郭の仮設的様相や、西半分の曲輪群の改修が不十分な点から、高取城の活用が臨時的だったこともうかがえます。
(鳥栖市誌第3巻第5章第2節より)

■「鳥栖市誌」発売中
「鳥栖市誌」は、市教育委員会生涯学習課、油屋本店、古賀書店などで取り扱っています。詳しくは、同課(【電話】0942-85-3695)へ。