文化 とす新風土記〜「鳥栖市誌」を読む〜 第120回

■「勝尾城(かつのおじょう)を知る」 第16話 ―毛利元就(もうりもとなり)の九州侵攻―
永禄5年(1562年)、毛利元就率いる軍勢が、関門海峡を越え九州へ侵攻します。大友宗麟(おおともそうりん)は、当初これを豊前( 福岡県東部) で迎え撃ちます。ところが、毛利元就の策略により、北部九州各地の武将が大友家に反旗を翻します。その結果、主戦場は福岡市近郊へと移り、長期戦となりました。
筑紫家にも毛利家から寝返りを促す書状が来たと伝わりますが、筑紫鎮恒(しげつね)(後の広門(ひろかど))はこれに応じなかったため、永禄11年(1568年)には毛利家に味方した龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の攻撃を受けます。翌年5月には、毛利家本隊が岩門城(いわとじょう)(那珂川市)を攻めます。広門は大友方として原田( 筑紫野市) に出陣し、毛利家をけん制します。この出陣はかなり効果があったようで、大友家からその功績をたたえる書状が発行されています。
その後、大友家は宝満城(ほうまんじょう)(太宰府市・筑紫野市)や立花山城(たちばなやまじょう)(福岡市東区・新宮町・久山町) など、毛利家の手に渡った城を着実に奪還していきました。
元亀(げんき) 元年(1570年)、大友宗麟は龍造寺氏を討伐するべく、自ら大軍を率いて豊後国(大分県)を出発し、高良山(久留米市)に本陣を置き指揮を執りました。
ところが、大友軍は佐賀に進撃したところで龍造寺軍の奇襲を受けて敗走してしまいます。
この戦いは今山合戦と呼ばれ、この戦いの後、龍造寺家は大友家に対抗できる勢力として地位を確立し、以後佐賀県東部や筑後地方へと勢力を拡大していきます。そして、その矛先は筑紫家と勝尾城にも向くようになります。
(鳥栖市誌第3巻第3章より)

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