- 発行日 :
- 自治体名 : 佐賀県多久市
- 広報紙名 : 市報たく 令和7年2月号
多久家資料『小しきふ(小式部)』を編集
小式部は平安時代中頃の歌人で「小倉百人一首」にも和歌があります。和泉式部について一条天皇の中宮藤原彰子(ふじわらのしょうし(あきこ))に仕えたため、小式部と呼ばれたとされます。藤原公成(ふじわらのきんなり)の子を出産した際に二十代の若さで死去しました。和歌の世界で活躍する契機となった物語が次に出てきます。
御門(みかど)が住吉へ御幸(ごこう(みゆき))された際に、和泉式部も御供(お(ん)とも)でした。その神社に参拝された時、千鳥、鴎(かもめ)などの水鳥が海に浮かび、北面の武士が水鳥を狙(ねら)う様子を見て「この景色を歌に詠んで献上せよ」と宣旨(せんじ)がありました。[挿絵10]和泉式部は姫を連れていたので、彼女に詠ませられるよう奏上(そうじょう)したところ、帝が姫を召し出され、歌を詠むよう命じられました。
姫は、〔千はやぶる 神のいかきも あらぬとも なみのうへにも とりゐたりけり〕(千早ぶる 神の斎垣も ある訳ではないが 波の上にも鳥居があった(鳥が居た)ことですよ)と詠みました。御門をはじめ公家や殿上人(てんじょうびと)は一度に感嘆しました。すぐに御袖(お(ん)そで)を下賜(かし)され、小式部の内侍(ないし)と名付けられ宮中に召され、栄華に誇りました。十三歳の頃です。
その後、母の和泉式部は九世(くせ)の戸(と)(京都府宮津市文殊堂付近)へ参りたいと御暇(お(ん)いとま)をいただきました。そして、御堂(みどう)を拝み、自分の逆修(ぎゃくしゅ)(注)塔を建て、土地を寄進しました。
注:生前に自分の死後の冥福を祈る法要を行うこと
※原本の挿絵は色絵になっています。郷土資料館に写真を掲示していますので、お立ち寄りの際にご覧ください。
多久市郷土資料館長 藤井伸幸(ふじいのぶゆき)