- 発行日 :
- 自治体名 : 佐賀県神埼市
- 広報紙名 : 市報かんざき 令和7年3月号
◆「神埼に住む幸せ」
神埼は古代から常に人の往来と定住があった住みやすい所です。
神埼町北部には旧石器時代や縄文時代の遺跡があり、弥生時代になると日本最大の環濠集落が出現…。
奈良時代には神埼郡衙(ぐんが)という中央政庁の役所が置かれ、馬郡の北には官道や駅が整備され、役所の建物跡などが発掘されています。日の隈山に防人たちの烽火台が設置されたのもこの頃です。
平城宮跡から「神埼御荘(みしょう)」と記された木簡が出土、そこに書かれていた神埼のサキは土偏の埼。平安時代中期の辞書「和名抄(わみょうしょう)」や「延喜式(えんぎしき)」という律令を施行する際の規則にも「神埼」が出てきますが、江戸時代の頃には山偏と土偏が混在し、幕府から統一の指示があり古来の土偏の埼になったという事です。
平安時代は、上皇院領として白川、鳥羽、後白河、後鳥羽と鎌倉時代が終わる頃まで長く続きます。
平家が鳥羽上皇の任を受け、神埼御荘を管理するのも平安時代末期の頃で、弥生時代から続いていた有明海を利用した大陸との交易がさらに盛んになり、平家の繁栄を生んだのも神埼からです。
室町時代には町の中心の道路が整備され、これが江戸時代になると長崎街道神埼宿として、小倉~長崎を結ぶ幹線道路の重要な本宿となりました。江戸時代から近世は、神埼は東肥前の経済の中心となり、東西の交通の要所として繁栄していきます。
これは、神埼の温暖な気候と古代からお米がとれる広大な平野があった事と、目の前に広がる有明海や、そこにつながる城原川や田手川の豊かな流れがあったからです。先人たちからつながるこんな豊かな神埼に住んでいる幸せを改めて思います。
「きままに神埼」と称して約3年、これが最終回となります。ご愛読くださった皆様に御礼と永久(とわ)の幸せを願います。ありがとうございました。
文化財観光案内専門員
執行真知子