文化 わがまち再発見『文化財のみかた』第18回

■城下町府中(現在の厳原)の文化財(1)
~石垣・石塀編~
江戸時代、城下町府中では火災が人々の暮らしを脅かしていました。その要因の一つは、この時代の家屋事情とされています。当時、瓦葺(かわらぶ)き屋根は武士などに限定されており、板屋根や茅葺き(かやぶ)屋根が大半を占めていました。そのため、ひとたび火災が発生すると、火は容易に隣家へ燃え広がり、幾度となく甚大な被害が発生しました。このことは、復旧費用が対馬藩だけではまかないきれず、幕府や町人からの拝借金・献金に頼ったという記録からもうかがい知れます。
1695年(元禄8)には火消番所(ひけしばんしょ)の設置や藩をあげて火の取り締りを行うなど、対策が徹底されるようになりますが、その後も1723年(享保8)の府中大火など、約100年間に5000戸以上の家屋が火災に遭っています。
この状況を鑑み、1841年(天保12)に防火壁による町並み整備が提案されます。各家を囲うように積み上げられた防火壁は、高いもので約4mにも及び、火災延焼を食い止めることで府中の町を守る役割を果たしてきました。かつては、江戸をはじめ全国各地の城下町を中心に防火壁が存在しましたが、戦後の区画整理や開発などによって、現在ではそのほとんどが失われ、残っているのは厳原だけとも言われています。
しかし、その厳原においても、道路工事や家屋の新設・改築のため、年々古い石垣・石塀が失われている状況です。先人が知恵と労力を絞って築いた防火壁を、後世に残し継承していくことが大切です。

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