文化 《シリーズ》南北朝・菊池一族歴史街道(19)

■福岡県久留米市
◇田主丸(たぬしまる)町
菊池一族が活躍した南北朝時代の歴史舞台に登場する耳納(みのう)連山を南に望み、北に筑後川が流れる町です。この町を創建し、地名に関わるのは、菊池一族の後裔と伝えられる人物。その名も「菊池丹後入道長芳(たんごにゅうどうながよし)」です。
時は慶長年間(1596~1615)、戦いに明け暮れていた菊池丹後がたどり着いたのがこの地でした。慶長19(1614)年、吉瀬名(きちぜみょう)の藪125間を切り開いて町筋を創りました。これが田主丸町の始まりと伝えられます。
「たぬしまる」という地名は、菊池丹後の往生観「我極楽世界楽生」により名付けられたとされます。この「我楽しう生まる」から「たぬしまる」となったといわれ、「たのしまる」と呼ぶ人も多いといいます。
町には数多くの河童にまつわる話が残り、人々の信仰を集めています。月読(つくよみ)神社の境内に鎮座する馬場瀬(ばばのせ)神社(「ばばんせどん」)も菊池丹後が、寛永10(1633)年に先祖に習い、罔象女命(みづはめのみこと)という水神を自宅のある馬場に祀ったのが始まりとされます。
 社殿には、罔象女命、二位尼(にいのあま)、九千坊(くせんぼう)、沙悟浄(さごじょう)、平清盛(たいらのきよもり)の木像が納められ、その中の九千坊と沙悟浄は「川ん殿」と呼ばれる河童です。

◇城島町浮島(じょうじままちうましま)地区
戦国時代、菊池義武(よしたけ)(義宗(よしむね)・義治(よしはる))の頃、菊池十左衛門(じゅうざえもん)(のち惣右衛門(そうえもん))は、菊池家を離れ、久留米に仮住まいしていた、と地域に残る資料に記されています。
筑後川の中州を開墾し新田を開発、手入れを怠ることなく管理することで、正式に筑後領に承認してもらいました。その後、この地に正式に住まいを移し、「有喜島」と名付けて開拓を続けます。郡代の指示で、表記を「浮島」と改めたと伝わっています。
浮島村と肥前領との間に新しくできた干潟(のちの小島(こしま))については、肥前藩側との争いに一歩も譲らず領地を守り続け、三代目惣右衛門の代になると、耕作地として開墾を始めます。
以降、代々惣右衛門の子孫は浮島村の庄屋を務めました。区内の厳島(いつくしま)神社境内には、地域住民により、初代惣右衛門を祭神とする江島(えしま)神社(菊池神社)が建てられるなど、地域の開拓者として敬われています。字小島にも菊池神社(小島弁財天社)があります。
また、当地区にある光正寺(こうしょうじ)は、十左衛門の父、菊池次郎兵衛義治(じろうひょうえよしはる)が天正3(1575)年に、現在の広川町に建立し、寛文3(1663)年に現在地に移転したものです。

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