- 発行日 :
- 自治体名 : 熊本県宇土市
- 広報紙名 : 広報うと 令和7年7月号
■中世における馬瀬(うまのせ)の賑わい
浜戸川の左岸に沿って長くのびる現在の馬之瀬町(うまのせまち)。その北東部の一画にある観音堂には、木造の十一面観音菩薩立像(じゅういちめんかんのんぼさつりゅうぞう)が祀(まつ)られています。その特徴は、鎌倉時代に活躍した仏師「運慶(うんけい)」の流れを汲(く)む作風とみられ、引き締まった表情や衣服のしわなどの写実的な表現、バランスのとれたプロポーションなどに優れた技術がうかがえます。本来は立派な寺院に祀られていたと考えられ、鎌倉時代、この近くにそうした寺院が存在した可能性を今に伝えています。
一方、宇土から遠く離れた福島県田村郡三春町(みはるまち)にある浄土宗寺院「光岩寺(こうがんじ)」所蔵の木造阿弥陀如来立像(あみだにょらいりゅうぞう)には、弘安(こうあん)3(1280)年、宇土郡馬瀬(うまのせ)(※1)の住人「得万太良(とくまんたろう)」が作らせたことがその胎内(たいない)に墨で書かれています(※2)。この像は、頭部の形や穏やかな表情、服のしわの表現などから、運慶と同じく鎌倉時代に活躍した仏師「快慶(かいけい)」の流れを汲む作風とみられます(※3)。得万太良という人物について詳しいことはわかりませんが、これだけの仏像を造らせた事実から、馬瀬付近を治めていた人物、あるいは財力を持つ有力商人などと考えられます。
同じく胎内に書かれた銘文から、この像は慶長4(1599)年に多比良(たいら)村(現長崎県雲仙市)の用林寺の住職が修理したことが判明しますが、その後、福島県の光岩寺に運ばれた経緯は不明です。
馬瀬観音堂と福島県の光岩寺、遠く離れた2箇所の仏像が、ともに鎌倉時代の馬瀬と関わりがあることを紹介しました。では、これらの立派な仏像が作られた背景にある当時の馬瀬とは、どんな場所だったのでしょうか。
観音堂がある現在の馬之瀬町北東部は、浜戸川と潤(うろご)川との合流地点に位置し、水上交通が物流の主役だった当時は交通の要衝でした。加えて、宇土郡・飽田郡・益城郡の3つの郡が接する郡境である点も、地政学的に重要と言えます(下図参照)。
また、観音堂周辺の字(あざ)名が「京泊(きょうどまり)」である点は、かつては近くの川沿いに船着場があり、人や船の往来で賑わった場所であることを裏付けています(※4)。
これらのことから、鎌倉時代をはじめとした中世の馬瀬は、交通の要衝であり、船着場を中心に多くの人や文物が行き交う賑やかな場所だったと推察されます。先に述べた2体の仏像が作られ、篤く信仰された背景には、水上交通の安全や商売繁盛など、この地を行き交う人々の幸せへの祈りが込められていたのではないでしょうか。
※1 現代の行政区は「馬之瀬町」だが、歴史上の地名として、本稿では「馬瀬」の表記で統一する。
※2 像内部につくられる空間を胎内と呼び、ここに経典などの文物が納められたり、像がつくられた由来などが書かれたりする。これらは外観ではわからないが、像の修復などの目的で解体した際に見つかることがある。
※3 運慶と快慶は、ともに鎌倉時代に活躍した仏師。東大寺南大門にある金剛力士像の作者としてよく知られる。
※4 泊(とまり)とは、船を停泊させる港のこと。転じて、それに付随する宿場町まで含んだ地名である可能性もある。
※詳しくは本紙をご覧ください。
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