- 発行日 :
- 自治体名 : 鹿児島県霧島市
- 広報紙名 : 広報きりしま 2025年6月上旬号
狭い石室に入り、自身の体をミイラ化し即身仏となる。霧島市にはそんな過酷な修行をした、3人の上人(徳の高い僧侶)の跡が残っています。
■勝利を願った日秀(にっしゅう)上人
隼人町の朝日地区にある日秀(にっしゅう)神社は、戦国時代に活躍した日秀上人を祭る神社であり、もともとは日秀が建てた神照寺三光院という寺があった場所です。日秀は(※1)補陀落渡海(ふだらくとかい)という修行を行い、琉球に流れ着いて奇跡的に生き残った高僧として有名です。琉球での寺建立の功績から、島津氏に請われて鹿児島に移ります。特に、戦国時代に戦火で焼けていた大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の社殿再建に奔走しました。今も鹿児島神宮の裏山にある杉林は、将来の社殿建立を見越して日秀が屋久杉を植えたものです。
天正3(1575)年、日秀は島津義久が戦勝することを祈願して石室にこもり、天正5(1577)年に(※2)入寂(にゅうじゃく)しています。入室の際には、義久から笄(こうがい)(刀装具)をもらい受けています。日秀に関わる遺品は多く残されていて、隼人歴史民俗資料館に展示されています。
■藩主にとどめられた空順(くうじゅん)上人
隼人公民館近くにある空くう順じゅん上人石室は、江戸時代に空順上人がこもった石室です。空順は寛文3(1663)年に大口で生まれ、若くから薩摩藩主の島津吉貴・継豊(つぐとよ)に仕えた僧です。空順は祈祷(きとう)によって災害を鎮めるなど、不思議な法力を持っていたといわれています。阿久根の町でたびたび火災が起こった時、空順が7日間無言断食の行を行い祈祷したところ、火事が起こらなくなったそうです。そのため阿久根市では火事よけの信仰として、今でも消防車両に空順号と名付けています。
空順は62歳で石室に入室し、薩摩藩のために祈り続けるつもりであったようで、石室は正徳元(1711)年に桜島で建立されています。何度か入室を願い出ましたが、藩主からとどまるよう言われ延期を繰り返します。その後、石室は現在の場所に移され、元文3(1738)年に入室したものと考えられています。藩主に何度もとどめられるほど、不思議な力と信頼を持っていた人物であったと思われ、地域の人に石室は今も管理され、信仰されています。
■徳を慕われる真応(しんのう)上人
城山公園の麓に今も残るのが真しん応のう上人の石室です。もともとこの場所には金剛寺という寺があり、その10代住職であったのが真応上人です。元和5(1619)年に鹿児島で生まれ、滋賀や京都、伊勢の寺で修業した後、金剛寺の住職を20年勤めます。元禄5(1692)年、74歳の時に三尺(約90センチ)四方の石室を造り、そこにこもって昼は読経(どっきょう)、仏像の彫刻を行い、夜は念仏を唱えて祈る日々を送りました。石室に入室してから何年も過ごしていたため、その徳を慕って多くの人がお参りに訪れたといわれています。元禄11(1698)年に80歳で入寂しましたが、その後も地域の信仰を集め、現在では商売の神としても信仰されています。
祈祷・修行のために石室にこもった3人の上人たち。これほど近い場所に3人もの痕跡が残っているのは非常に珍しいと思われます。(文責=小水流)
(※1)南にあると考えられた観音菩薩のいる地へ向かうため、海へ船出する宗教行為。ほとんど命を落とす行為とされている。
(※2)僧が死ぬこと。