- 発行日 :
- 自治体名 : 沖縄県西原町
- 広報紙名 : 広報にしはら 2025年6月号 No.640
太平洋戦争末期、沖縄が戦場になってから今年で80年になります。
昭和20(1945)年、米軍は3月26日に慶良間(けらま)諸島に、4月1日には、読谷(よみたん)・北谷(ちゃたん)の海岸から沖縄本島へと上陸しました。一方、日本軍は海岸での交戦(こうせん)を避け、首里城地下の第32軍司令部壕を中心とした宜野湾(ぎのわん)村(現:宜野湾市)、浦添(うらそえ)村(現:浦添市)、中城村、西原村(現:西原町)、真和志(まわし)村(現:那覇(なは)市)の首里以北5kmに陣地を構え、持久戦(じきゅうせん)に備えていました。米軍は上陸後、4月3日には東海岸に達し本島を南北に分断、4月8日には嘉数(かかず)高地を始めとする日本軍の陣地に到達し、激戦(げきせん)となっていきます。西原でも、千原(せんばる)のイシグスク(米軍呼称:ロッキークラッグス)から、5月中旬に運玉森(米軍呼称:コニカルヒル)が陥落(かんらく)するまで激戦が繰り広げられていくことになります。
運玉森の頂上から北側を見ると、米軍が上陸した海岸線、嘉数高地、前田(まえだ)高地、棚原(たなばる)グスク等中部戦線の主な激戦地を見渡すことができます。また、西側には、首里城とシュガーローフ(現:那覇市おもろまち)の位置を確認することもできます。このことから、東側の運玉森、西側のシュガーローフが、首里城地下の司令部壕を守る最後の砦であり、激戦地となったことがわかります。米軍が百万ドル分の砲弾(ほうだん)を撃(う)ち込んだという運玉森の頂上に立ち、砲弾(ほうだん)が飛んできて各地から爆煙(ばくえん)があがっていたであろう当時の景色を想像すると、戦争の怖さを改めて考えてしまいます。
6月の平和月間中は、西原町役場・西原町中央公民館・西原町立図書館でそれぞれ平和企画展や資料展が開催されます。戦後80年目のこの機会に、激戦地だった西原で何があったのか、当時の西原で暮らす住民の方がどのように巻き込まれたのか改めて皆さんも学んでみませんか。(※開催内容・日程については西原町平和月間のページ参照)
※運玉森の頂上へは、与那原町側から階段を上っていくことができます。西原町側は一部私有地があることや危険な場所もありますので、立ち入らないようお願いします。
参考文献:
『沖縄県史各論編第6巻沖縄戦』/沖縄県教育委員会
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』/防衛庁防衛研究所戦史室
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