文化 戦後80年のあゆみ

日本の終戦から今年で80年が経過します。戦時から現在までの間、私たちの暮らしに大きく影響を与えた出来事などを歴史資料などから振り返ります。

■第3回 物不足に耐えた戦時下の暮らし
昭和12年に日中戦争が始まり、戦争が長期化・拡大すると、戦地では兵器や食糧、輸送用の車両や馬、燃料など大量の物資が必要となりました。軍事物資を確保するため国内では生産や販売の自由が制限されるようになり、農業では米や麦をはじめとする農産物を国へ提供する制度が定められ、提供された農産物は各町村の産業組合を経てホクレン農業協同組合連合会の前身である北聯(ほくれん)が一元的に集荷する体制が整えられました。
食料品や生活用品は配給によって家庭に届けられ、栗沢村での配給を記録したノートからは、食用油や味噌醸造用の大豆のほか、石炭・灯油などの燃料、衣類、裁縫糸や釘まで、多くの品が配給対象となっていたことが分かります。配給品の受け取りには切符(購買券)が必要となり、各家庭で手に入る物資の量が限られていたため、米不足を補う代用食や豆類などとの混食、燃料になる草木を集めるなど、物資節約の工夫が重ねられました。昭和16年の栗沢村報ではじゃがいもを使った団子や白いんげん豆の餅など代用食のレシピ集を掲載し、栄養のある食事と米の節約を両立するよう呼び掛け、北村などの農村部では農繁期に共同炊事を行い、物も人手も不足する中、工夫と協力によって戦時下の生活に耐えました。
一方、戦闘機による空襲の威力が知られるようになると、その対策が地域に広まりました。各家庭では夜間の照明を漏らさないよう注意を払うとともに、市内では空襲に備え全戸参加での訓練や防空壕造りが続けられました。また、空襲警報が発令された際の近所への声掛けや初期消火には、隣保(りんぽ)班(隣組)での協力が重視されました。岩見沢、北村、栗沢では大規模な空襲はありませんでしたが、幌向に艦載機の補助燃料タンクが落下したほか、上幌に小型爆弾が投下されるなど脅威にさらされました。
戦争が終わると、空襲の脅威はなくなりましたが、衣類や食糧の不足に伴い統制は続けられ、物不足に耐える暮らしは昭和26年にサンフランシスコ平和条約が結ばれる頃まで続きました。

問合先:総務課市史資料室(北村支所内)
【電話】56-2001