くらし 【特集】派遣職員に映る復興(1)

■できるてとは何でもやると肝に据えて
平成26年4月以来、復旧・復興のために七ヶ浜町への派遣職員として尽力されてきた瀧敏行(たきとしゆき)さんが、3月末をもって退任されます。
着任した平成26年は、震災後3年が経ったばかり。高台移転のための5つの地域のうちの一つ、松ヶ浜西原地区の造成がようやく終わったばかりで、高台移転、土地区画整理など課題はまだまだ山積みでした。
愛知県春日井市から支援に来て、七ヶ浜の復興の様子を11年間にわたり見守り続けてきた瀧さんの目に映った七ヶ浜とは・・・。

◇阪神淡路大震災、涙が止まりませんでした。
出身は兵庫県西宮市です。30年前の1・17阪神淡路大震災では、早朝、春日井市の自宅でも大きく揺れ、火災や倒れた高速道路の惨状をテレビで見て慌てて休暇を取り、両親の安否確認に奔走したことが思い出されます。
あの時は、娘が通う小学校から託された水や食料などの支援物資も積んで西宮市の小学校に届けました。
春日井市から西宮市までは通常約200キロですが、途中、高速道路は閉鎖され、橋は落ち、やむなく山越えや回り道をしてひたすら走り続けました。幸い両親も無事で実家は一部損壊で済みました。
ようやく到着した時の、高校まで育った街の変わりようと、雨の中、余震におびえながら崩れかけた軒下に立ち尽くす大勢の人たちの姿を目の当たりにし、涙が止まりませんでした。
今考えると、津波で家が跡形もなくなってしまった七ヶ浜町の人々の当時の気持ちは、どんなものであったろうかと心が痛みます。
当時は、行政マンとして阪神地区への復興支援に携わる機会がなかったため、恩返しというわけではありませんが、何かしらの復興支援に携わりたいとずっと思っていました。
14年前の東日本大震災が発生した時、私が在籍していた春日井市の上下水道部は、石巻市の給水支援をしましたが、翌年の平成24年からは、オール愛知として復興支援をすることになり、土地区画整理事業の進んだ春日井市からも、先陣を切って職員を派遣することが決まりました。
しかし、この時は若手が派遣され、私の派遣は叶わなかったんです。今後も若手の派遣が続くのだろうとあきらめかけていた時、副市長から平成26年度の派遣の打診がありました。その時、私からは、復旧には時間がかかることから、1年ではなく、3年間の派遣を提案し、快諾いただきました。