くらし 市長の手控え帖

■「粋なお相撲さんとその盟友」
元横綱北富士(きたのふじ)が亡くなった。相撲解説者のイメージが強いが、力士としても10回優勝している。甘いマスクと明るい性格で人気があった。盟友玉(たま)の海(うみ)と共に頭角を現す。当時は大鵬(たいほう)の全盛期。二人は何度も厚い壁に跳ね返されたが、次第に力をつける。1970年3月場所で、同時に横綱昇進を果たす。悲劇が襲う。玉の海が27才の若さで急死。北の富士は人目もはばからず号泣した。大きな支えを失い、約3年後に引退。後輩の指導にあたり、九重(ここのえ)部屋を継ぐ。「名選手、名監督ならず」だが、千代(ちよ)の富士(ふじ)、北勝海(ほくとうみ)の二横綱を育てた。褒めてやる気にさせるのが指導方針。北勝海は「私は人から言われると稽古をやらないタイプ。褒められたからここまできた」と述懐する。まさに名伯楽だった。
協会の広報部長を務め、理事長候補といわれた。だが一門の内紛で理事になれなかった。千代の富士も反対に回った。相撲界も人間の集団。一門間の勢力争いもあれば、一門内の確執もある。一切を呑(の)みこみ、あっさり協会を去る。その矢先、相撲解説者への要請があった。
玉の海を覚えている人は少ないだろう。立ち合って右四つに組みとめ、寄り、吊(つ)りの力相撲。恵まれた体格ではなかったが、どんな相手にも真っ向勝負。頭をつけたり、体当たりはしなかった。一回り体の大きい大鵬に16連敗を喫する。それでも取り口は変えない。〝負けて覚える相撲かな〟広い肩幅に低い重心、強靭(きょうじん)な足腰で徐々に右四つの型ができてくる。
横綱になり格段に強くなる。在位はわずか10場所だが130勝20敗。双葉山(ふたばやま)、白鵬(はくほう)に次ぐ勝率。直近7場所では96勝9敗。抜群の安定感で双葉山の再来と言われた。あと6、7年現役でいたら、歴史に名を残す力士になっていただろう。
北の富士も、ぐんぐん強くなってきたのを肌で感じていた。〝いずれ玉の海が主役になる。だがすんなり勝たせないぞ!〟と闘志を燃やす。強い絆(きずな)で結ばれた友の無念の死に、耐え難い虚しさと喪失感を味わった。そして改めて玉の海がいかに大きい存在だったかを痛感した。
北の富士は朝青龍(あさしょうりゅう)や白鵬の強さを認めつつも、粗暴な面を嫌悪した。〝相撲は勝てばいいというものではない。勝ち方が大事だ〟相撲は日本の伝統文化であり、勝ち負けを超えた『美』がなければならないとの想いがあった。その胸の内には、玉の海の美しい立ち合いと、理想的な四つ相撲の姿があったに相違ない。
相撲解説は天職だった。勝負の分かれ目を、ユーモアを交え巧みに表現した。舞(まい)の海(うみ)とのかけあいも面白かった。銀座や花柳界で遊び、幅広い交流を通し人を見る目が養われ、人情の機微にも通じていた。文章も上手。自ら一気に原稿用紙に綴(つづ)るコラムは、見事な文体だった。
らしからぬ相撲を舌鋒(ぜっぽう)鋭く批判する。特に、品格が求められる横綱への視線は厳しい。朝青龍には〝あんな程度の稽古で大丈夫なのかね〟。白鵬には〝大横綱たるものが張り手をやるのかね〟。一方、頂点を前に苦しむ稀勢(きせ)の里(さと)には〝力は横綱級、あともう少し〟と励ます。宇良(うら)が勝つと〝こういう力士が活躍すると面白いね〟とえびす顔。そこには相撲に対する畏敬の念と力士への愛があった。
北の富士はお洒落(しゃれ)だった。背広も革ジャンも似合っていた。特に和服姿からは、ハッとするような男の色気が漂っていた。身の処し方にも美があった。物事に恋々としない。潔い。恨み言を言わない。まさに洒脱で『粋』な人だった。
土俵の頂点に立ち名親方と慕われ、自由闊達(じゆうかったつ)な解説者になる。話しても、歌っても、書いても達者。これほど多才な人はもう出てこないだろう。二人は国技館の空の上で「新横綱が誕生したね。名実ともに品格・技量を備えた力士になってもらいたいね」と話していることだろう。