文化 れきみんコラム


中郷村は明治22年に滝・柴原・蛇石・根本・樋渡・狐田・過足・春田・貝山・蛇沢・込木・楽内・芹ヶ沢の13村が合併してできた村です。それ以前から、共同して戸長役場を設置していた芦沢村(現田村市)や、柳橋や駒板といった村(御館村となり、のち郡山市へ合併)は合併しませんでしたが、この結果、広い面積と、資力を持った村が誕生しました。「中郷」の名称は、いにしえの通称を用いるとして命名したとされます。
明治期の中郷村の記録としては、「見聞雑行記」という文書に(三春町史10巻掲載)、明治11年から44年までの出来事が書かれています。明治22年には、「市町村改正四月一日ヨリ(中略)中郷村元村十三ヶ元村大字ト称ス村長田村謙次郎」という一文がみえます。しかし、規約などを除いて、この記録の中で次に「中郷村」の名称が出てくるのは明治29年なので、新しい村名に慣れるのには時間がかかったのかもしれません。
写真(2)は明治22年の道路開鑿(かいさく)願で、現在の県道・飯野三春石川線に該当する部分に関し、土地や資金を捻出するので工事をお願いしたいという内容になっています。見聞雑行記を見ると、明治26年に「三春から柳橋まで道路開鑿に入る」という文が見え、翌27年に田村郡長による道路検査が済んだとあります。明治に入ると、新しい交通手段が増えたことから、どの村でも道路整備が急務であったことがうかがえます。
明治33年の県の巡視では、中郷村には凶作時の備えがあり、それを積極的に増やす段取りがされていることが特記されています。

※詳細は、本紙P.32をご覧ください。