文化 れきみんコラム

■町村合併あれこれ 岩江村
なにげなく「岩江村」としていますが、昭和33年に書かれた『岩江村の全貌』という本には、「巌江村」が正式な名称とあります。明治22年に十二村(山田・上舞木・下舞木・白岩・下白岩・芹沢・根木屋・安原・阿久津・横川・南小泉・北小泉)が合併すると、岩石を産する土地であり、大河のある村であることから村名をつける、となり、後に小泉村の初代村長となる後藤隆作が「巌作山妙音寺(堂坂にあった寺)」の巖を」と意見して「巌江村」になったと書かれています。三春町史にこうした話は見当たらないので、貴重な記録です。
実は、岩江村は明治期の旧役場文書が最も少なく、ないと言っても過言ではないほどです。昭和分はいくらかあるのですが、他の村と違って、明治27年に北小泉・南小泉の二村が分立して小泉村になるなど、複雑な成立過程をたどっているため、このような状況になったと思われます。福島県の報告では、田村郡でも一・二を争う大村、となっており、確かに合併後の県のデータでは195戸1232人だった人口が、昭和30年には838戸5918人と、屈指の伸びとなっています。また当時は安原や阿久津など阿武隈川に面した村々があったため、舟運からくる収入もあり、村の資力は十分だったのでしょう。
しかし、福島県の報告はだいぶ難しい事態を伝えており、「大村にして旧十二ヶ村の合併なるを以て民意自ら一致する能(あたわ)ず」と、村の議会運営に困難を生じていることが記されています。岩江村の歴代の指導者は公平性を失わず、難しい状況に対処していたようです。