文化 かさまのれきし第87回

■秋元浚郊と時習館功令・学則
江戸時代の日本は、武士はもちろん、商人、職人、百姓など一般庶民に至るまで文字の読み書きができる識字力が、世界的に見ても高い国でした。その背景には藩校や私塾、寺子屋などの教育環境が整っていたことが挙げられます。
十七世紀前半、幕府は積極的に儒学教育を奨めました。その流れは十八世紀後半になると、多くの藩が内憂外患(ないゆうがいかん)という社会状況に対応するため、有能な人材を育成することを目的とする藩校の設立へと向かいます。笠間藩において、笠間城下では文化十四年(一八一七)、秋元浚郊(あきもとしゅんこう)の私塾「欽古塾(きんこじゅく)」を藩校とし、名を「時習館」と改め、藩士子弟の教育が本格化しました。時の藩主は名君と称される牧野貞喜(さだはる)でした。
今回は、時習館初代教授の秋元浚郊と彼が著した「時習館功令」と「時習館学則」を紹介します。秋元浚郊については、雨森征煥(あまもりせいかん)の「秋元浚郊先生行状」(大正十四年刊行『笠間郷友会会報』)に詳しく記されています。簡潔にまとめると、秋元家は代々笠間藩主牧野家の家臣でした。浚郊は幼い頃から非常に賢く学問に秀でていましたが、生まれながら足に疾(やまい)があったため十五歳の頃、ある決意をしました。「武家に生まれながら、武道で身は立てられない。ならば、儒者を目指す」と。浚郊は江戸から来た依田松軒(よだしょうけん)に学び、笠間にある書物を読み尽くし、ついに藩から儒学者と認められ、江戸に上り儒者関松窓(せきしょうそう)の門下に入ります。寛政六年(一七九四)笠間に戻り、藩命をもって「欽古塾」を開きました。たくさんの子弟に学問を教えていましたが、同八年、ふたたび江戸で研鑽(けんさん)を積みます。その後笠間に戻り、笠間藩士子弟の教育にますます力を注いでいくことになります。
文政六年(一八二三)、浚郊の亡くなる前年に著された「時習館功令」と「時習館学則」を読むと彼がいかに博学で、学問に対して真摯な姿勢で臨んでいたか、ということがひしひしと伝わります。「時習館功令学則」の「序」は、笠間藩四代藩主牧野貞幹(さだもと)が書いています。その中で、貞幹は浚郊のことを「まことに、学問の正しい道を子弟に指し示す指南車※1だ」と評し、「子弟が功令学則に謹従すれば、英才が次々と出てきて、国が治まり将来有望だ」とも述べています。
「時習館功令」は、人はなぜ学ぶのかということ、そして怠ることなくそれぞれ自分の学びを続けることの意味を分かり易く説いています。一方「時習館学則」を読み解くと、浚郊の考えは江戸で学んだ徂徠学(荻生徂徠(おぎゅうそらい)の学問)が根底にあります。学則一から学則七まで全てにおいて徂徠の思想※2の「道(みち)」を要(かなめ)としており、その「道」を学ぶ意味や具体的な方法を丁寧に解説しています。
「時習館功令・学則」は『詩経』や『書経』、『易経』など古代中国の古典を多々引用しています。そして著されてから現在まで、約二百年の時を経(へ)ていますが、人それぞれの長所を伸ばし、家族や友人に思いやりの心で接し、学ぶことを続けることが大切である、といった教えは、今を生きる私たちの心にも深く沁(し)み入ります。
(市史研究員 松山京子(まつやまきょうこ))

※1指南車…古代中国で用いられた、あらゆる方向に台車を動かしてもその上に乗った仙人像の手は必ず決められた方向を指さし続けるという羅針盤のようなもの。
※2荻生徂徠の思想…「先王の道」古代中国の堯、舜、禹、湯、文王、武王、周公、孔子を聖人とし、その聖人の天下泰平で民が穏やかに過ごせる政治、社会制度を理想とする考え。

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