- 発行日 :
- 自治体名 : 茨城県笠間市
- 広報紙名 : 広報かさま 令和7年12月号
■笠間とのつながりのある赤穂義士
▽大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)
四十七士を率いた大石内蔵助良雄の曽祖父・良勝は真岡藩主時代の長重に仕え、家老にまで出世をしました。良勝の子・良欽も笠間藩へ出仕し、この父子が居宅を構えた場所が「大石邸跡」として残され、後の歴代笠間藩主の家老の屋敷として引き継がれました。良勝の弟・信云は、長矩の刃傷事件の第二報を赤穂の国元へ知らせた、大石瀬左衛門信清の祖父にあたります。
▽勝田新左衛門武尭(かつたしんざえもんたけたか)
勝田家は常陸国本木村出身であり、武尭の曽祖父・重尭が長重に仕えると、武尭の祖父にあたる新兵衛も笠間藩主時代の長直に仕え、赤穂藩にもついていきました。
▽堀部弥兵衛金丸(ほりべやへえあきざね)
金丸の祖父・助左衛門、父・弥兵衛は真岡藩時代の浅野氏に仕え、金丸自身も長直・長友・長矩の三代に仕えました。赤穂移封時には長直に仕えていたことから、義士の中で唯一、笠間藩士の身分でした。堀部安兵衛は金丸の婿養子であり、四十七士随一の剣客でありました。
▽このほかゆかりの赤穂義士
吉田忠左衛門兼亮(よしだちゅうざえもんかねすけ)
大高源五忠雄(おおたかげんごただすけ)
小野寺十内秀和(おのでらじゅうないひでかず)など
■笠間にのこる浅野家のはたらき
▽浅野長直藩主時代に行われた“都市計画”
浅野家が藩主となる前の笠間藩は、城付き三万石程度でしたが、浅野家が藩主となると五万石に増加。家臣団の構成もそれなりとなり、武家人口や商工業者の増加も必然となったことから、城下町の整備や拡張が必要となりました。
武家屋敷をさらに広げ、「大和田」、「五騎町」、「桧町」、「桜町」、「裸町」「鷹匠町」など笠間城南側一帯を中下級武家町として整備。
町人町としては、寛永17年(1640)に「新町」を創設。この成立により、「大町」「愛宕町」「高橋町」「荒町」「新町」の五か町が完成し、以後城下町としての町人町が確立されました。
これらの町割りが現在も引き継がれ、発展を遂げています。
▽浅野家と笠間城
当初、政務は笠間城本丸の狭い居館で行われていました。笠間城の山城であるがゆえの不便さと、政務への影響から、長直藩主の時代、寛永20年に現在の佐白山ろく公園の場所に下屋敷が建設されました。
■全国の忠臣蔵ゆかりのまちが笠間に 第34回義士親善友好都市交流会議忠臣蔵サミットin笠間
笠間市合併20周年を記念して「忠臣蔵サミットin笠間」を11月7日に笠間公民館で開催しました。
全国の忠臣蔵ゆかりの地から、今回は10自治体が参加。
ゆかりや取り組みを紹介しあい、交流を深めました。
▽かさま応援大使玉川祐子さんがオープニングに登場
オープニングには、笠間市出身で現役最高齢103歳の曲師玉川祐子さんが、浪曲師の港家(みなとや)小(こ)そめさんとともに浪曲を披露しました。「神崎与五郎東下り」を披露し、小そめさんの唸りと節回し、そして祐子さんのキレのある三味線と力強い声に圧倒される舞台となりました。
地元歓迎ムードで会場があたたまり、最後の祐子さんの「この年になって舞台に上がれれるのは最高の幸せ。感謝感謝です」という一言に皆さん笑顔がこぼれました。
▽神田伯山さんが忠臣蔵を魅せる
メイン公演には六代目神田伯山さんが登場し、赤穂義士伝を披露しました。
演目前段のまくらでは、出演前に巡った、笠間の菊まつりや笠間日動美術館などでのエピソードが披露され、会場大盛り上がり。
笠間にゆかりがある堀部弥兵衛にちなんだ二席「安兵衛駆け付け」「安兵衛婿入り」を披露し、迫力のある講談に引き込まれ、会場が息をのむ一体感につつまれました。
