文化 特集 歴史と演芸で親しむ「忠臣蔵」(1)

笠間にもゆかりがある「忠臣蔵」。
笠間と忠臣蔵の関わりは、赤穂浅野家の長矩(ながのり)の曽祖父である長重(ながしげ)が笠間藩主としてこの地に入ったことから始まりました。
長重から始まる笠間藩には、後に四十七士を率いた大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の祖父である良欽(よしたか)をはじめとする義士とのゆかりから、今も彼らの足跡が私たちの地に息づいています。

また、忠臣蔵は歌舞伎や講談・浪曲・落語の題材として、今もなお人々を魅了しています。
市出身・かさま応援大使で現役最高齢103歳の曲師玉川祐子(たまがわゆうこ)さんの活躍や、11月7日に開催された「忠臣蔵サミットin笠間」での六代目神田伯山(かんだはくざん)さんによる講談会、そして市内で行われているさまざまな演芸会。

いま、笠間で演芸があつい!

今回は、忠臣蔵と笠間のゆかりを振り返りながら、「歴史と演芸で親しむ忠臣蔵」をお届けします。

■忠臣蔵ストーリー
元禄14(1701)年、江戸城内の松の廊下で赤穂藩藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が高家肝煎・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に刃傷に及びました。
浅野長矩は即日切腹となりましたが、吉良義央はお咎めなし。
元禄15年12月14日、大石内蔵助をはじめとする赤穂義士が、亡き主君の浅野内匠頭長矩の仇討ちを実行しました。
長矩の刃傷事件と赤穂義士の仇討ちは「赤穂事件」と呼ばれ、後に「忠臣蔵」として広く知られています。

■歴史をつなぐ人たち 笠間義士会
忠臣蔵と笠間のゆかりを後世に伝えようと、昭和5年に有志により義士会の創立が呼びかけられました。昭和27年頃に「義士顕彰会」を発足。戦争のため一時活動が中断されたものの、時代の安定に伴い、昭和41年に大勢の市民の賛同を得て復活しました。昭和47年に大石内蔵助銅像が佐白山ろく公園の笠間城跡に建立された後(平成30年4月に大石邸跡に移設)、「笠間義士会」となりました。

■毎年12月14日の赤穂義士が討ち入り果たした日には
義士たちが討ち入り前にそば屋で休息したことにちなんだ「笠間そば講」や、討ち入り装束で笠間稲荷門前通りを練り歩く「義士パレード」などが行われています。

■笠間義士会創立60周年イベント
昭和41年の復活から今年で60周年を迎え、12月14日には、記念イベントが行われます!
日時:12月14日(日)

1.義士パレード
時間:午後1時~(午後0時30分笠間稲荷神社稲光閣集合)

2.設立60周年記念特別講演会
講師:中央義士会・日本城郭史学会員 武類俊哉(むるいとしや)さん「笠間と赤穂義士の関係」
時間:午後2時30分~
場所:笠間稲荷神社稲光閣

3.講
談講談師の神田菫花(かんだすみか)さんが赤穂義士伝を披露します。
時間:午後4時~
場所:笠間稲荷神社稲光閣

問合せ・申込み:かさま歴史交流館井筒屋
【電話】0296-71-8118
※講演会と講談は、有料で事前申し込みが必要です。詳しくは、お問い合わせください。

■浅野家と笠間のつながり
赤穂藩浅野家は、赤穂藩主の前は笠間藩主を務めていました。
関ヶ原合戦の後、江戸で隠居生活となった浅野長政(ながまさ)は、徳川家康から隠居領として真壁郡・筑波郡に五万石を与えられました。
長政の三男・長重は下野真岡藩が与えられていましたが、父・長政が亡くなると、常陸真壁藩を受け継ぎ、大阪の役の活躍に対して加増され、元和8年(1622)、真壁領を含む笠間藩へ移封しました。
長重と長直は2代にわたって笠間藩主を務め、長直の時代に赤穂藩へ移封となりました。
このような経歴から、赤穂義士の中には、常陸国や笠間との関わりが見られる人物がいます。

▽浅野家家系図

▽笠間藩領の内常陸国領の村々
※『新笠間市の歴史』挿図より作成。村名は寛延4年領地目録より。
一覧については本紙をご参照ください