くらし ふるさと歴史だより

◆戦争と地域社会
-動員される兵士-
昭和20年(1945)にアジア・太平洋戦争が終結してから、今年で80年の節目を迎えます。この戦争は一般市民を巻き込んだ総力戦となり、多くの兵士が戦地へ動員されました。常陸大宮市域も例外ではなく、出征した兵士のうち2,100名を超える方々が戦病死したとされていますが、彼らは一体どのような手続きを経て戦地へ向かったのでしょうか。今回は、文書記録から確認できる兵士動員の実情についてお話しします。

◇戦時下における兵士の召集
昭和戦前期の日本では、国民の義務として「兵役(へいえき)の義務」(大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう)第20条)が定められており、17歳~40歳の男性全員に兵役義務が課せられたほか、満20歳となった男子全員に徴兵(ちょうへい)検査を受けることが義務づけられました。徴兵検査の合格者(甲種(こうしゅ)・乙種(おつしゅ))は現役兵として2年または3年の兵役に服した後、現役を退いて「予備役(よびえき)」に編入され、義務期間に戦争が起きた場合は現役兵として軍務に復帰する仕組みとなっていました。これらの人々は在郷(ざいごう)軍人と呼ばれ、平時は一般市民と変わらない日常生活を過ごしていましたが、戦争が拡大するにつれ、徐々に戦地へ動員されるようになりました。また、現役兵としての適性を満たさない者(丙種(へいしゅ))についても、昭和18年(1943)以降は兵士として召集され、戦場へ送られるようになっていきます。

◇兵士の動員に関する手続き
アメリカとの戦争が始まった昭和16年(1941)以降、日本では多くの在郷軍人が召集され、戦地へと出征しました。その時に必ず使用された書類が臨時召集令状、いわゆる「赤紙(あかがみ)」です。召集令状は、水戸に設置された連隊区司令部から警察署を経由し、町村役場へ届けられました。役場では、兵事(へいじ)係の職員が兵士の動員に関する業務を担当しており、令状の入った軍用封筒を町村長らの面前で開封し、在郷軍人名簿と照合して記載事項を確認した後、召集を受ける本人の家に赴き、令状を手渡しすることが決められていました。令状には集合日時と召集部隊名が記されており、受け取った側は受領証部分に署名捺印を施したうえ、受領証を切り離して役場へ提出しなければなりませんでした。このような手続きを経て、最終的に多くの人々が戦地へと動員されていくことになります。
こうした兵士の動員に関する文書の多くは、終戦直後に軍の命令によって焼却処分となり、そのほとんどは失われてしまいました。しかし、焼却をまぬがれた文書もごく僅かに存在しており、例えば、旧野口村役場で昭和20年に作成された「動員ニ関スル発来翰綴(はつらいかんつづり)」には、警察署から村役場へ送付された令状送付証、召集令状の受領証、警察署に提出した令状交付終了通知書の控えなどが綴られており、兵士動員に関する事務手続きの詳細がうかがえる貴重な内容となっています。

参考文献:
・黒田俊雄編『村と戦争 兵事係の証言』桂書房、昭和63年

(文書館 高橋拓也)

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