くらし ふるさと歴史だより

◆水戸歩兵第二連隊の足跡
昭和20年(1945)に終結した先の戦争では、日本側だけで国内外含めて推定300万人を超える犠牲者を数えるなど、多くの命が失われました。特に前線で戦っていた兵士の損耗は甚大で、昭和18年(1943)以降は激しい戦闘の末に玉砕(ぎょくさい)し、全滅する部隊も現れ始めました。茨城県出身者が多数在籍した水戸歩兵第二連隊(みとほへいだいにれんたい)もそのひとつであり、昭和19年(1944)にパラオ諸島ペリリュー島で玉砕し、常陸大宮市域出身者を含む1万人超の兵士が戦死しています。今回は、「郷土部隊(きょうどぶたい)」として親しまれた水戸歩兵第二連隊の足跡を紹介します。

◇「郷土部隊」としての歴史
歩兵第二連隊は、明治7年(1874)に東京で創設されました。当初は佐倉(千葉県)に兵営を置いていましたが、明治42年(1909)に水戸へ移転となり、現在の茨城大学がある場所に兵営が設置されました。移転にあたっては、水戸市が明治38年(1905)に連隊誘致の市民大会を開催したことを契機に、誘致運動が盛んとなり、軍による視察の結果、旧渡里村(わたりむら)(水戸市渡里町)一帯に兵営や練兵場(れんぺいじょう)が敷設(ふせつ)されることが決まったそうです。また、水戸移転の2年前に歩兵の徴集区(ちょうしゅうく)が改正され、歩兵第二連隊に入営する兵は水戸連隊区管内、すなわち茨城県民から徴集されるようになりました(一県一連隊区制)。こうして、歩兵第二連隊は水戸を中心に「郷土部隊」としての歴史を歩み始めました。以後、同隊はシベリア出兵、満州事変、日中戦争など主要な戦闘に数多く参加し、「関東軍最強」と称されるようになっていきます。

◇ペリリュー島の戦い
昭和19年(1944)、満州に駐屯していた水戸歩兵第二連隊に南太平洋方面への派遣命令が下り、同年4月にペリリュー島へ上陸しました。ペリリュー島は自然洞窟や断崖、ジャングルなどが至る所に形成された島であり、同隊はただちに防空壕(ぼうくうごう)や陣地の構築に取りかかったほか、海岸線で敵を撃退する水際(みずぎわ)作戦や自然地形を利用した持久戦などを立案してアメリカ軍の上陸に備えました。そして9月15日、アメリカ軍がペリリュー島に上陸すると、水戸歩兵第二連隊を中心とするペリリュー守備隊は水際作戦に基づき、大量の重火砲や決死部隊による攻撃を用いてアメリカ軍に大損害を与えた後、持久戦に持ち込んでアメリカ軍に打撃を与え続けました。しかし、戦況の悪化に伴い物資が底を尽きはじめたほか、戦死傷者数が増大し、陣地を守ることすら困難な状況に陥ったことにより、中川州男(くにお)連隊長は11月24日に玉砕を伝える電文を司令部に送り、自決しました。こうして、ペリリュー島における組織的戦闘は終了し、創設から70年続いた水戸歩兵第二連隊の歴史も幕を閉じました。戦後、同島では戦没者の慰霊や遺骨収集が定期的に行われているほか、近年ではペリリュー島の戦いを描いた漫画などによって、壮絶な戦いの様子が現在に伝えられています。

11月9日まで、常陸大宮市文書館で企画展「戦後80年資料が語る戦争の記憶」を開催中です。また、ペリリュー島の戦いを舞台にした劇場版『ペリリュー-楽園のゲルニカ-』の原画パネルなどもあわせて展示しておりますので、ぜひお越しください。

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参考文献:
・水戸歩兵第二聯隊史刊行会編『水戸歩兵第二聯隊史』昭和63年
(文書館 高橋拓也)

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