文化 新・下野市風土記

「戒石銘(かいせきめい)」
しもつけ風土記の丘資料館

下野国芳賀郡(現在の栃木県芳賀郡)に生を受けた「岩井田昨非(いわいださくひ)」(元禄(げんろく)12(1697)年~宝暦(ほうれき)8(1758)年)という儒学者がいます。この人物の名前はほとんど知られていませんが、昨非が進言した文章は昭和10(1935)年に教育資料として、また行政の規範として価値の高い「旧二本松藩戒石銘碑(きゅうにほんまつはんかいせきめいひ)」として国の史跡に指定されました。

指定名称にあるように、この碑文は福島県二本松市に所在する二本松城跡(霞ヶ城址(かすみがじょうし))にあります。この城のある二本松藩は約10万石の丹羽(にわ)氏(織田信長家臣丹羽長秀(にわながひで)系)が、寛永(かんえい)20(1643)年~明治元(1868)年までの約220年間藩主を務めました。

昨非は、享保(きょうほう)19(1734)年に藩政改革に苦慮している二本松藩(現在の福島県二本松市)に150石で召し抱えられ、文武両道の教育をはじめ、軍制・士制・刑律・民政などの重要施策を次々と改革しました。その改革の拠点となったのが二本松城の東側にある藩庁(藩士の勤務場所、庁舎のような施設)で、5代藩主(丹羽家7代)丹羽高寛(にわたかひろ)公の時、昨非の進言により藩庁の通用口にある約8.5m×約5mの自然石(花崗岩(かこうがん)の巨石)に、藩士の戒めとして次の4句16文字を刻ませました。

その銘文は、

爾俸爾禄〔なんじの俸(ほう) なんじの禄(ろく)は〕
民膏民脂〔民(たみ)の膏(こう) 民の脂(し)なり〕
下民易虐〔下民(かみん)は虐(しいた)げやすきも〕
上天難欺〔上天(じょうてん)は欺(あざむき)きがたし〕

訳:お前が御上から戴く俸禄(給料)は、人々の汗と脂の結晶である。下々の民は虐げやすいけれど神をあざむくことはできない。

と記されています。つまり、「お前(武士…公務に携わるもの)の俸給は、人々の労働により得られた賜物である。お前は人々に感謝し、いたわらなければならない。この気持ちを忘れて弱い人たちを虐げ、無駄な行いをするならば必ず天罰があるぞ」と解釈されます。
この戒石銘は、中国の北宋(ほくそう)時代(980年代)に君主 太宗(たいそう)が官吏(かんり)への戒めとして各州県に配布し、その役所の門前に碑が建てられたものが起源といわれています。時代は変わっても公務に携わる人々にとって重要な心得を示しています。
下野国出身の儒学者にも岩井田昨非のような知識人がいたのです。

参考:二本松市公式ウェブサイト「国指定史跡戒石銘」

今回をもって、新・下野市風土記は最終回となります。長い間、ご愛読いただきありがとうございました。
4月号からは、下野市市制20周年を記念し、改めて下野市の歴史に親しんでいただけるような特集ページを企画中です。お楽しみに。