文化 ~東(ひがし)の飛鳥(あすか)・下野と飛鳥の歴史を紐解く~

■第7回 「東の飛鳥」青龍の由来(2)
しもつけ風土記(ふどき)の丘(おか)資料館

◇新制度の開始
前回は天武天皇と皇后鸕野讃良(うのさらら)(後の持統(じとう)天皇)の子の草壁皇子が天武天皇の皇位継承者として新たな政務を執るため、飛鳥浄御原令(きよみはらりょう)が用意された可能性が高いことについて触れました。この令に基づき、20年ぶりに全国を網羅する戸籍(庚寅年籍(こういんねんじゃく))が作成され、都をはじめ各地で働く官人の新しい勤務評定や位記(正一位から従八位などの位階)制度、それにともなう人事評価などが始められます。今回は天武天皇から草壁皇子へ継承されるはずの皇位を母である持統天皇が受け継ぎ、治世を開始した頃のお話です。
飛鳥浄御原令は、現存しないため詳細は不明です。後に制定された大宝律令はその名称のとおり、律(現代の刑法に相当)と令(行政法や民法に相当)の2項目で構成される法令ですが、浄御原令の段階では律は編さんされず、政治や行政のルールとなる令のみで構成されていたと想定されます。
令の主な内容は、(1)戸籍制度の導入(2)地方行政組織の整備(3)班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)に関するものでした。戸籍は全国の人々を正確に把握するため、6年ごとに作成されました。

◇庚寅年籍
天智天皇9(670)年に庚午年籍(こうごねんじゃく)が作成されてから20年ぶりの持統3(690)年に、初めて全国を対象とした庚寅年籍が作成されました。692年には、この戸籍により畿内(きない)で口分田(くぶんでん)の班給が開始されました。また、戸籍を介して個別に人員を把握して公平に税を徴収し、さらに成人男子を防人(さきもり)として徴兵(ちょうへい)することで、労働力として動員・管理が可能となりました。
この法令が施行される以前の天武12~14年には、既に使者が各地に派遣され諸国の境界を定めていましたが、国内部(里・郷となる単位)の境界には統一基準がありませんでした。
この地方行政組織に関する法令の整備により、国内の地方行政区分として50戸(こ)(戸…家族単位のようなまとまり)を1里(り)(里…村のような単位)と規定しました。後にこの規定は律令制の「国(くに)・郡(ぐん)・里(り)(郷)」制に引き継がれます。

◇班田収授法
班田収授法は、675年の部曲(かきべ)(私有民)を廃止し、すべての農地と人員を国の所属とする「公地公民」と関連する法令です。6年ごとに作成された戸籍を基に、その翌年の10月1日~11月1日の間に地方では国司(こくし)、都では京司(けいし)(都の役人)が班田のための帳簿を作成、前回の帳簿と照合し新たな受田資格者に口分田を班給して、死亡者の田は収公する決まりとなっていました。帳簿の確認が終わると翌年の1月30日までに中央官庁の太政官(だいじょうかん)へ申請、2月30日までに許可が下りて班田が給付されました。およそ6歳以上(戸籍が6年ごとに作成されるため登録される年齢に幅がありました)の庶民(良民男子・女子・官戸(かんこ)・公奴婢(くぬひ)・家人(けにん)・私奴婢(しぬひ))は、国から田が与えられると、死亡するまで一定の税を納めなければなりませんでした。

◇官僚機構の強化
この浄御原令の整備と並行して、中央の官僚機構が強化されました。以前から朝廷に仕える官人たちは、出自の親族集団名「氏」を名乗っていました。天武天皇13(684)年に「八色(やくさ)の姓(かばね)」(真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)の八姓)が導入され、中央・地方を問わず豪族や官人の姓(かばね)を決め、家柄の上下が区分されました。また、天武十四(685)年には四十八階の冠位制に基づく位記(正一位から従八位などの位階)が導入され、これが勤務評定の際の基準となり官人たちは階級で序列化されました。

次回へつづく