- 発行日 :
- 自治体名 : 栃木県那須町
- 広報紙名 : 広報那須 令和7年5月号
■那須町の地域文化遺産 vol.1
新連載「那須町の地域文化遺産」では、町内各地にあふれる魅力ある地域文化遺産を1年ごとにテーマを定め紹介します。初年度は、「戦後開拓碑」をテーマとして、初回は千振地区にある「開拓」碑を紹介します。
千振開拓など、多くの戦後開拓の前身と言えるのが、かつて中国東北部に存在した満州国で実施された「満蒙開拓」です。「満蒙開拓」も試験移民(武装移民)、分村・分郷移民、満蒙開拓青少年義勇軍、帰農(転業)開拓団などそれぞれの経歴・出身により違いがあります。
千振開拓は、昭和7年〜同10年まで実施された試験移民の第2次移民として、東北・関東・中部など14県から在郷軍人500名が選抜され、宗光彦団長のもと三江省樺川県七虎力(しちこりき)(現黒竜江省・満州語でチフリと発音)に入植しました。「千振」は地名の発音から命名されたものです。満州国の千振では、農業に従事すると共に武装移民として治安維持にもあたりました。
昭和20年8月9日、ソ連軍の満州国侵攻が始まると、千振開拓民の逃避行が始まり、帰国できずに亡くなった方々もいます。帰国できた千振開拓民は、国内での入植先を求め、昭和21年11月7日に120戸が高津地区(那須村)・西郷地区(福島県西郷村)・高原地区(塩谷郡)に分かれ入植し、戦後の開拓がスタートしました。その後高原地区に入植した開拓民は、大島地区に再入植しています。
千振開拓民の入植当初は、麦作など畑作中心で営農していましたが、相次ぐ霜害・冷害により営農形態が酪農へとシフトし、現在は酪農が盛んな地域として知られています。また、教育・文化の面でも、千振季節託児所(現町立千振保育園)や逃室小学校千振分校(廃校)が設立され、大人たちも俳句会・短歌会を結成するなどしています。
千振地区にある「開拓」碑は、そのような戦中・戦後の千振開拓民の歴史を体現しています。昭和41年に建立されたこの碑はかつて千振開拓団長を務めた吉崎千秋氏による撰文です。また碑は日本遺産「明治貴族が描いた未来〜那須野が原開拓浪漫譚〜」の構成文化財でもあります。千振地区を訪れる際にはぜひお立ち寄りください。
問合せ:那須歴史探訪館
【電話】74-7007