- 発行日 :
- 自治体名 : 埼玉県行田市
- 広報紙名 : 市報ぎょうだ 令和7年8月号No.950
■資料がかたる行田の歴史77
▽幕末の農兵と忍藩
農兵とは領主の軍事力補塡や領内の治安維持のため、農民に軍事訓練を施したものです。慶応2(1866)年6月に起こった武州世直し一揆では、武蔵・上野内の諸藩や幕府の歩兵、八王子千人同心の他、伊豆韮山代官配下の農兵たちも鎮圧に加わり、その存在が注目されました。
忍藩でも慶応3(1867)年5月に農兵を組織することになりました。当初は行田町から人選された47人が本陣に呼び出され、銃隊の稽古が命じられました。その時の記録である「銃隊一件訳書覚」には、稽古に参加した町民の名前が出ています。これを見ると大沢久右衛門や綿屋儀助、橋本槌三郎、橋本茂七、山田清兵衛といった大店の子弟が参加しています。藩の命令で組織したのですから、最初は有力町人の身内が参加したのでしょう。稽古は佐間村の天神社の裏にあった安養院という寺で行われました。
続いて藩領内の村々でも農兵を組織することになりました。同年12月に藩から出された「御口達覚(ごこうたつおぼえ)」には、今回藩主の命令により農兵を取り立てて稽古することとなったので、よく心得て対応するようにとあります。編成は城付四組(佐間組・持田組・谷郷組・皿尾組)ごとに行われたようで、非常時には親村(割役名主がいる村)でそれぞれ半鐘を鳴らすので、各村はそれを受けて半鐘を鳴らし、農兵は駆け付けるようにとあります。また、村役人は農兵を引き連れて昼夜油断なく見回りをして、不審者がいれば、取り押さえるようにとあります。農兵は治安維持にも一役買っていたようです。
慶応3(1867)年12月といえば、大政奉還の2カ月後であり、藩主松平忠誠(ただざね)も軍勢を率いて上洛しました。まさに風雲急を告げる激動の時代を背景として忍藩の農兵は編成されていったのでした。
(郷土博物館 鈴木紀三雄)