文化 特集 古墳~先人からのメッセージ~(2)

【古墳から出土したお宝】
市内ではとても珍しいお宝も出土しています(出土場所は2ページの地図に記載)。
長い年月を経て地上に出てきたこれらの物たちが、古代の文化などを伝えてくれます。

◆発掘調査で出土した県内唯一の事例
○横矧板鋲留短甲(よこはぎいたびょうどめたんこう)(市指定考古資料)
平成19(2007)年に東耕地(ひがしこうち)3号墳(美原町)の発掘調査で、埋葬施設から大刀(たち)や剣(けん)、鉾(ほこ)とともに短甲が出土しました。短甲は胴体を守る防具です。横長の鉄の板を鋲(びょう)で留めてつなぎ合わせていることから、横矧板鋲留短甲と呼ばれています。5世紀後半に製作されたものです。定型化した短甲の多くが畿内(きない)(現在の奈良県・大阪府一帯)の古墳から出土しており、ヤマト王権(おうけん)が生産と管理を掌握し、各地の有力者と軍事的な関わりを持つ過程で供給されてきた背景が指摘されています。県内では、発掘調査で出土した初めての事例です。

◆全国で唯一の造形
○水鳥(みずどり)を冠(かん)した人物埴輪(じんぶつはにわ)(市指定考古資料)
現在のきらめき市民大学構内、岩鼻古墳群にて出土したこの埴輪は、水鳥形の冠帽(かんむりぼう)を被った男子が、左の小脇に何かを抱え、右手を前方に向かって差出し、何かを手招くようなしぐさを表現し、腰の後ろにはT字形の袋のようなものが表現されています。この埴輪の役割については「脇に抱えたものから餌をまいて鳥を呼んでいる」「鳥の装いをし、古墳に近づく邪霊を袋に封じようとしている」「死者の魂を呼び寄せ、馬に乗せて導いていく」など、様々な説がありますが、全国で同様の造形を持つ埴輪がなく、今後同様の埴輪が発見されればその役割がはっきりしてくるものと考えられます。

◆古墳時代最終末の逸品
○方頭大刀(ほうとうたち)・銅鋺(どうわん)(市指定考古資料)
西原(にしはら)1号墳(上唐子)は7世紀代に築造された古墳で、横穴式石室(よこあなしきせきしつ)から鉄鏃(てつぞく)7本とともに、伏せられた状態の銅鋺1点と、柄頭(つかがしら)を北に向けて置かれていた装飾付大刀(そうしょくつきたち)(方頭大刀)1振ふりが出土しました。
方頭大刀は刀の柄頭(つかがしら)に方形(ほうけい)の飾りがつく大刀の総称で、この古墳に埋葬された人物は、ヤマト王権を構成する有力豪族との結びつきがあったものと考えられます。
銅鋺は、青銅でできた平底の器で、一部が押しつぶされて亀裂が入っていますが、欠損した部分がなく、完全に原形をとどめています。鋳型による鋳造製品で、その制作技法は、現代の旋盤技術(せんばんぎじゅつ)にも匹敵する精緻(せいち)なものと評価されています。

◆埼玉県内初の発見
○三角縁陳氏作四神二獣鏡(さんかくぶちちんしさくししんにじゅうきょう)(市指定考古資料)
平成23(2011)年に高坂古墳群で、県内で初めて三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)を発見しました。古墳時代前期にヤマト王権が各地の有力者と協力関係を結ぶ過程で配布されたものと考えられており、王権と結びつきの深い人物が高坂にいたことを示す発見といえます。「鏡」と名がついていますが、現代の鏡とは用途が違い、有力者の権威の象徴(威信材(いしんざい))として古墳に副葬されるものです。市では、この鏡が、約1600年前に鋳造された当時の姿を復元しました。

【古墳が造られた背景~反町遺跡(そりまちいせき)と五領遺跡(ごりょういせき)~】
古墳は有力者のお墓ですが、そもそも古墳が造られる背景にはその有力者を支えた集落の存在があります。
反町遺跡は北を都幾川(ときがわ)、南を高坂台地(たかさかだいち)に挟まれた自然堤防上に所在しています。古墳時代前期の集落跡としては県内最大級と推定されています。この遺跡にはこの土地の土器である五領式土器(ごりょうしきどき)のほか、東海西部系、東海東部系、畿内系、近畿北部系など、他地域の系譜を引く土器(外来系土器(がいらいけいどき))が出土しています。複数の地域の土器の全てが揃(そろ)った遺跡は県内でも反町遺跡だけです。
さらに反町遺跡からは玉造(たまつくり)の工房跡や、川の水流を引き込む堰(せき)や木製の農具なども発見されており「商業・工業・農業」が揃う希少な遺跡です。
引用・参考:『埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書 第380集 反町遺跡II』公益財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団 平成23(2011)年
反町遺跡の北方、都幾川を挟んだ対岸の東松山台地上には五領遺跡が所在しています。こちらも古墳時代前期を主体とする集落遺跡で、これまで古墳時代の住居跡150軒以上の調査が行われています。五領遺跡で出土している土器は、畿内系の土器がほとんどを占めており、同じ時期の関東地方の土器が東海西部系の土器が多いのが一般的なのに対し、非常に畿内色の強い遺跡です。
・反町遺跡はヤマト王権の経済圏を拡大するため、先進技術を伴って遠方からやってきた人々が形成した技術や交流の拠点
・五領遺跡は首長(しゅちょう)クラスの住まいの周辺に営まれた畿内系の集落
こうした遺跡の存在が、三角縁神獣鏡や将軍塚古墳の背景にあることが分かります。

【文化財担当者へインタビュー】
◆市の古墳時代の特徴は?
最大の特徴は約450年間続いた古墳時代の各時期に、地域を代表するような古墳や集落が造られ続けたことです。この背景には東松山市の立地があります。複数の河川は水源であり、人的・物的交流の大動脈でした。また台地や丘陵は、古代の人々が生活するうえで自然災害に強い、住みよい環境であったと言えます。

◆市民の皆さまへ
今回紹介した古墳時代の資料は、市の文化財のごく一部です。市内には考古資料のほかに古文書等の歴史資料や、木や植物などの天然記念物、地元のお祭りで披露される民俗文化財など、多種多様な130件の指定文化財があります。そのほか、古民家等の建造物や仏像や路傍(ろぼう)に置かれた石造物(せきぞうぶつ)など、いわゆる「未指定の文化財」と呼ばれるものが、把握しているだけでも7300件以上あります。こうした一つ一つの文化財が市の歴史を紐(ひも)解き、後世に伝える役割を担っていることを知ってもらえたらうれしいです。