- 発行日 :
- 自治体名 : 埼玉県深谷市
- 広報紙名 : 広報ふかや 2025年5月号
■栄一に論語を教えた尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)
「私は論語で一生を貫いてみせる。」と、実業の世界に身を転じた渋沢栄一は、『論語と算盤(そろばん)』を信条に、日本経済の近代化にまい進します。起業により、産業を広める栄一の志の原点には『学び』の力がありました。
栄一にとっての学問は、農家であっても学問の大切さを説いた父、市郎右衛門(いちろうえもん)の導きから始まります。最初は、父から『論語』の第二章まで教えられ、7歳ごろから、父の勧めでいとこの尾高惇忠の下で、『論語』をはじめ、多くの漢籍(かんせき)(漢文の書物)などに親しみ、学問の楽しさを知っていきます。
惇忠の教え方は実にユニークで、「好きな本を好きなだけ読むがよい、意味は後からついてくる。」と、まずは、こどもの好奇心を深め、分からない言葉や文章でつまずいたら、丁寧に教授するというものでした。つまり、惇忠は、栄一に読破する楽しみを体験させることで、継続的に学び、知識を高めるとともに、学問の神髄(しんずい)を教えたのです。
栄一は、12歳の時に歩きながら本を読んでいて溝に落ち、晴れ着を汚して母親から叱られたというエピソードがあるほどの読書好きでした。惇忠の教えにより、分からないことを調べて理解することが苦ではなかったことは、後に実業家になって多くの会社づくりを行う際に、栄一の助けとなりました。このように惇忠は、栄一の生涯に大きな影響を与えた人物でした。栄一は、惇忠亡き後も、宇野哲人(うのてつと)を自宅に招いて論語講読会を行ったり、二松学舎を創立した三島毅(みしまき)(号・中洲(ちゅうしゅう))と論語を学び続けたりしました。
栄一にとって『論語』は、生涯学習そのものだったのかもしれません。