- 発行日 :
- 自治体名 : 埼玉県毛呂山町
- 広報紙名 : 広報もろやま 令和7年7月号 No.1018
■西戸古塚記
~石に刻まれた発掘の記録~
毛呂山町の遺跡調査で最も古い記録は、今から130年以上前の明治時代に遡(さかのぼ)ります。現在の西戸地内で行われた小高い塚の調査です。森戸村(現坂戸市)の大徳周乗(だいとくしゅうじょう)によってまとめられた当時の調査記録は、石に刻まれ、『西戸古塚記(さいどこづかき)』として古墳の頂上に立てられました。
調査が行われた古塚は、地元では行任塚(ぎょうにんづか)と呼ばれていました。行任とは、西戸を開発したといわれる平維新(たいらのいしん)のことで、西戸の丸山城を築いたという伝承があります。
行任塚の調査は、明治26年(1893)、地元の有志によって行われました。『西戸古塚記』には、「入間郡川角村西戸に行任塚という古塚があり、秋の長雨で塚が崩れ、槨(ひつぎ)が表れた。槨は二つに分かれており、どちらも一丈(いちじょう)ほどの広さで、中から、人骨、刀、鏃(やじり)、金環(きんかん)が出土した。奥の槨には、数体の人骨が整然と並べられていたことから、埋葬されていたのは高貴な人と殉死者(じゅんししゃ)たちである。殉死の風習は垂仁天皇(すいにんてんのう)の代に禁止されたが、畿内(きない)から遠い東の地までは俗化(ぞっか)されていなかったのだろう」(要約)と記されています。垂仁天皇が痛ましい殉死を禁止し、天皇に仕えた豪族の野見宿禰(のみのすくね)は、代わりに土で作った人馬を立てるように進言したことは、『日本書紀(にほんしょき)』に記述があります。これを埴輪(はにわ)の起源とする説もあったことから、埴輪が出土しない行任塚の被葬者(ひそうしゃ)を貴人と殉死者たちと考えたのかも知れません。
明治時代の発掘調査から98年経った平成3年(1991)、工場建設に伴う考古学的な調査を実施することになりました。行任塚の周辺には、10基以上の古墳があることから、一帯を西戸古墳群と名付け、行任塚を2号墳としました。調査では、長さ2・15メートルの遺体を納めた奥の部屋(玄室(げんしつ))と手前の前室の二つに分かれた横穴式石室(よこあなしきせきしつ)が発見され、数体分の臼歯が確認されました。出土品は、金環に相当する金銅製(こんどうせい)の耳飾りのほか、ガラス製の小玉が多数出土しました。刀と鏃は出土しませんでしたが、明治時代の記録を裏付ける成果でした。
複数の被葬者は、異なる時期に何度も遺体を埋葬する追葬(ついそう)の結果であって、横穴式石室の特徴を示しています。『西戸古塚記』は、地域の歴史に留まらず、今から130年以上前の、考古学事情を良く伝えており、考古学史(こうこがくし)を飾る貴重な資料となっています。