- 発行日 :
- 自治体名 : 埼玉県毛呂山町
- 広報紙名 : 広報もろやま 令和7年11月号 No.1022
毛呂山町を通る鎌倉街道上道(かみつみち)は、鎌倉時代から室町時代にかけて多くの人々が往来しました。そのなかの一人に、室町時代、鎌倉街道上道を駆け、関東の統治に奔走した足利基氏(もとうじ)がいます。
足利基氏は、室町幕府を開いた足利尊氏の四男として、暦応(りゃくおう)3年(1340)に生まれました。基氏が生まれた時代の東国は、南朝に味方する武士や、滅亡した鎌倉幕府で政治を取り仕切っていた北条氏に恩義を感じ味方をする武士など、室町幕府と対立する勢力が多数存在しました。
そのため、室町幕府は東国の統治を進めるため、貞和(じょうわ)5年(1349)に鎌倉に「鎌倉府(ふ)」という機関を設け、基氏を最初の長官「鎌倉公方(くぼう)」に任命しました。関東の騒乱のなかで過ごした基氏について、鎌倉室町時代の著名な人物や出来事を記した『塵塚(ちりづか)物語』には、武勇がたくましく、慈悲の心をもち、正直な心根(こころね)をもつ人物で、歌道にも精通していた、と記されており、武勇とともに文化的な教養の高い立派な武士であったことが伺えます。
基氏の武勇を広く紹介しているのが、軍記物語『太平記(たいへいき)』の「芳賀兵衛入道軍事(はがひょうえにゅうどういくさのこと)」に記された苦林野(にがばやしの)合戦です。苦林野合戦は、貞治2年(1363)毛呂山町の北東部から岩殿丘陵を舞台に、基氏が下野国(しもつけのくに)(現在の栃木県)の武将芳賀氏と戦った合戦です。
太平記の記述には、芳賀軍の動向をとらえた基氏が素早く軍勢を集め、芳賀軍と戦うために軍を進めたことが記されていますが、合戦の舞台となった苦林野に向かう進軍路が鎌倉街道上道だったと推定されています。
芳賀軍と苦林野で対決した基氏は、精強(せいきょう)な芳賀軍の兵士を馬上から打ち倒し、馬から引き落とされて組討ちする危険な状況もありましたが、数に劣る芳賀軍を徐々に追い詰め、ついには敗走させることに成功しました。
苦林野合戦の勝利により、鎌倉府の影響力を高めた基氏は、貞治5年には戦災にあった葛貫の住吉神社(現在の住吉四所神社)の修営を行うなど、東国の平穏のために奔走しますが、翌貞治6年にその生涯を終えました。
