くらし 〔特集〕松本ピアノ(1)

-君津が生んだ唯一無二の文化資産-
常代生まれの松本新吉は、国産ピアノの先駆者として多くのピアノをつくり、君津市にもピアノ工場を建てました。苦難と克服の連続であった松本ピアノの歴史は、脱皮を繰り返し成長する今年の干支「巳(ヘビ)」のように、再生や生命力を感じさせてくれます。今年最初の特集では、自らの信念に基づき挑戦し続けた松本ピアノの軌跡を辿ります。

■松本ピアノを生み出した松本新吉(常代出身)
創業者の松本新吉は周淮(すえ)郡常代村に生まれ、築地、月島、そして君津の地でピアノづくりに情熱と信念を注ぎ込みました。
親子三代にわたるピアノづくりは国内で唯一ともいわれ、国産ピアノ製造の黎明期、松本ピアノは山葉・西川と並び、三大ピアノメーカーとして名を馳せました。

松本ピアノ創業者の松本新吉は、1865年に上総国周淮(すえ)郡常代村(現在の常代)で生まれました。隣家は国産オルガン製造の先駆者となった西川虎吉の生家でした。
新吉は22歳の時、西川虎吉が横浜日の出町に新設した西川風琴製造工場に妻るゐと共に見習いとして住み込み、楽器製造の研鑽を積みました。6年後、新吉は虎吉に解雇され、28歳で調律師として独立し、東京市日本橋区下槙町で、紙巧琴(しこう)きん(手回しオルガンの一種)の製造に着手しました。
その後新吉は、築地の居留地近く、東京市京橋区新湊に移り、楽器の修理販売を営みながら自宅脇に開設した築地工場でオルガンの試作を始めます。さらにピアノづくりにも取り組みますが、満足のいくピアノがつくれなかった新吉は技術を学ぶため、渡米を決意するのでした。

▼米国での修業
1899年、楽器製造を先行する山葉寅楠(現在のヤマハ創業者)が、国費で米国視察を行ったのに対し、新吉は妻と6人の子どもを残し、1900年に乏しい自己資金で渡米しました。半年ほどの滞在で、数多くのピアノ工場を訪問しましたが、ブラドベリーピアノ社のスミス社長との出会いが、新吉の運命を大きく開きます。スミス社長は工場見学だけでなく、他の日本人には見せなかった響板(音を増幅し、音色を左右する役割を持つピアノの重要部分)の製作方法を新吉だけに見せ、ピアノづくりを一から学ばせてくれたのです。そのため、工作機械やピアノ部品の買い付けに時間を割いた寅楠に対し、新吉はピアノづくりの技術を習得することができました。

▼盛況と苦難の時代
技術を習得し帰国した新吉を悲劇が襲います。妻るゐが病死したのです。悲しみに暮れる間もなく、新吉は新製品を発表し、「私はピアノの製造には一身一家を抛(なげう)って顧みない覚悟です」と、ピアノづくりを本格始動させました。
1903年、第5回内国勧業博覧会に出品したベビピアノが最高位を受賞すると、松本ピアノの名が広く知られるようになり、1904年に松本楽器合資会社を設立、銀座4丁目に松本楽器店を出店しました。築地工場は規模を拡大し、増産体制を整え、大規模な工場となりました。この頃、前田侯爵家や原敬首相など、多くの著名人が購入するなど、経営は好調でした。しかし、1906年、築地工場を火災で焼失。さらに月島に工場を移設しますがこれも火災で全焼し、銀座の楽器販売店の経営権も失います。立て直した月島工場も1917年に台風による津波で浸水、1923年に関東大震災で全焼してしまうのです。

▼故郷君津でのピアノ製作と工場の閉鎖
震災での火災の後、新吉はH(エチ).MATSUMOTO(マツモト)というブランドで大量生産を目指した長男広に月島工場を譲ります。1924年、六男新治と共に君津に戻り八重原工場を設立。S(エス).MATSUMOTO(マツモト)というブランドで再出発を図りました。
農繁期は農家の仕事に戻ってよいとの条件で、地元の青年らを雇用した新吉は、スミス氏のように、ピアノづくりを一から教え、ピアノ製作を続けました。1928年に八重原工場第1号となるアップライトピアノを製作し、翌年1月に当時の三島小学校に納入します。製作に携わった職工の手紙には、蒲団を何重にもかけたピアノを馬車に積み、送り出した際の感激が綴られています。現在、このピアノは修復され、演奏会で奏でられています。(ピアノ(1))
その後も貞元小学校、小櫃小学校、周南小学校など、学校や個人宅に数多く納品され、1944年には朝香宮様の木更津第一小学校視察にあわせてアップライトピアノが製造されました。
1941年、新吉は77歳で没し、2代目新治も1945年に40歳で急逝してしまいます。その後、新治の妻和子・息子新一と、戦前からの従業員がMATSUMOTO and SONS(マツモトアンドサンズ)というブランドでピアノづくりを続け、音色の良さで、高い評判を得ていました。しかし、他メーカーの大量生産や国産木材の価格高騰などが経営を圧迫。2007年、ついに工場は閉鎖・解体され、工場内にあったピアノは市に寄贈されました。

▼地域社会に根付く新吉の思い
新吉のピアノづくりを研究していた市民団体が中心となり、2007年、松本ピアノを文化資産として残そうと、松本ピアノ・オルガン保存会が設立されました。そして、新一の指導のもと、周南中学校の一角でピアノの修復が始まり、さらに広がっていきました。周南中学校の生徒が選択授業として、校舎の片隅に置かれていた音の出ない松本ピアノを5年の歳月をかけ修復したのです。さらに周南公民館でも修復講座が始まり、市民と共に周南公民館の松本ピアノも修復しました。ピアノづくりの幕が下りたかに見えましたが、新吉が掲げた技術を一から教えるスタイルや、ピアノづくりの情熱は、新一を通じ、地域に受け継がれていきました。

▼君津の魅力として全国へ
新一が保存会や中学生、有志の皆さんと修復したピアノは、現在もコンサートや地域活動などで使用されているほか、生涯学習交流センターや君津亀山少年自然の家などに設置され、今も美しい音色を奏でています。さらに、昨年10月には、市役所応接室にもピアノを設置し、来訪者への紹介を始めました。(ピアノ(2))
新吉が情熱を注ぎ続けたピアノづくりの歴史とスウィート・トーンを奏でるピアノは、本市が生んだ唯一無二の文化資産となっています。令和の今、国産ピアノづくりの黎明期をリードした松本ピアノの魅力を発信し、再び全国でその名を響かせていきます。

〔ピアノ(1)・ピアノ(2)は本紙をご覧ください〕